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2007年6月29日 (金)

宮沢喜一氏死去 和魂洋才の系譜

Miyazawa  宮沢喜一氏の人生のうちで、一番印象深いのは、ナイフを持った暴漢に襲われ、30分間、議員会館内で格闘して取り押さえた、という事件である。

1984年3月、当時64歳だった宮澤は立正佼成会の会長秘書を騙る男とホテルで面会、ナイフを突きつけられた上、30分にもわたる取っ組み合いをし、負傷しながらも一人でその男を取り押さえたという事件がある。

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30分間取っ組み合って、戦うだけの気力、体力があったのは凄い。議員会館で30分間誰も気づかないのも不可思議な空間であるが、小柄な宮沢喜一氏のどこにそれだけの体力が隠れていたのか、不思議だ。

 

最近になって、宮沢喜一のポケットには日本国憲法を持っていた、と誰かが言っていた。池田勇人の腰巾着のようにチョコチョコくっついていたが、秘書官をやるには、それだけの才能があったのだろう。

宮沢喜一の略歴 旧制武蔵高校を経て東京帝国大学卒業。在学中の1939年、日米学生会議に参加のため渡米した。これを期に英語は得意だったが、エキスパートになった。

Miyazawa02 1942年1月、大蔵省に入省。沼津税務署長などを経て、終戦時には本省で戦争保険を担当していた。1945年8月、東久邇宮内閣で大平正芳とともに津島壽一蔵相秘書官。1949年には池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉。1951年9月、サンフランシスコ講和会議では全権随員として参加。

池田通産大臣が1952年に不信任されると、宮澤も大蔵省を退官。池田の強い勧めで翌1953年、参議院選挙に広島県選挙区から出馬し当選。1962年第2次池田改造内閣では経済企画庁長官として初入閣、池田首相のブレーンの一人として所得倍増政策の一翼を担う。

テレビの政治討論会などに積極的に出演し、自民党のニュー・ライト(新保守)を代表する若手政治家として注目される。1967年には衆議院議員となり、以後通産相、外相、総務会長などの要職を歴任。

党内では中曽根内閣期まで、安倍晋太郎・竹下登らとともにニュー・リーダーの一人となり、この3人は安竹宮と呼ばれた。1986年、宏池会会長となり派閥を継承。

1987年秋には中曽根の後継者の座を安倍・竹下と争った。中曽根の裁定により竹下が総裁に就任。宮澤は竹下内閣に副総理兼蔵相として入閣し、消費税導入に尽力するが、1988年、リクルート事件が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。

1991年、海部首相の退陣にともなう自民党総裁選挙で勝利、72歳にして内閣総理大臣に就任。当時のキングメーカーであった金丸信は渡辺美智雄を推し、竹下は三塚博を推していた。結局双方が譲り合って宮沢が首班となった、とされる。

宮沢喜一は、静かで平和主義とも言われるが、結構好き嫌いは激しいし、人を見下ろす嫌な面もある。

Img642_kiichi_miyazawa_1晩年(今年2月) 母校東大へのこだわりが強く、後輩議員や新聞記者たちに学歴を事細かに聞き、東大卒でないと露骨に馬鹿にする、と非常に嫌われていた。
 早稲田大学出身の竹下登と竹下派経世会をそれで敵にまわした。宮澤が竹下登と初めて会ったときに「(東大法学部の)何期生ですか?」と尋ね、竹下は「早稲田です」と返した。そして宮澤は「じゃあ、政経(政治経済学部)ですよね?」と言い、竹下が「いえ、商学部です」と返したところ、宮澤は竹下のことを鼻で笑ったという。
 
また、温厚な竹下が、宮澤から「貴方の頃の早大商学部は無試験だったそうですね」といわれたことを「許せない」と言っていたというエピソードを、佐々淳行が伝えている(『後藤田正晴と十二人の総理たち』)。

 勉強ができるのを鼻にかける典型のような印象を与えて、敵を作ってしまう。悪気はないのかも知れないが、ちょっとした気遣いがないゆえに、敵をつくる。苦労や下積みがない人の特徴ともいえる。 

 あるとき、記者に聞かれて、「田中氏や福田氏の書く字はどう思われますか」と質問すると、宮澤は小首をかしげて
「あなたは、あれが字だと仰るんですか?」と切り返した。
 達筆で知られる宮澤には、下手が下手なりに書いた文字をほめるという気遣いがちょっと欠ける。これが宮沢氏について回る。秀才で能筆家で先が見える人には、人がバカに見えるんだろう。
 

Ktoukouiti  平和に貫くにはどうするべきか、しっかり考える宮沢さんほどの卓見がある人は少なくなった。加藤紘一が残っているが、党内に力があまりないのが惜しい。加藤紘一の発言に注目していきたい。

宮沢さんの言葉
 「一片イッペンの氷心ヒョウシン、玉壺ギョクコにあり」宮沢内閣が不信任案が成立したとき、宮沢さんが自分は何の曇りもない心境であると言ったとき引用した言葉。

宮沢さんの言葉
 「みずからの乏しきを思うと深淵に臨んで薄氷を踏む思いだ」鈴木善幸さんから派閥を引き継いで宮沢派を作ったときの挨拶。澄みきった心境のことで、盛唐の詩人・王昌齢の次の詩から採られています。

 寒雨江に連なって夜呉に入る
 平明客を送れば楚山孤なり
 洛陽の親友如し相問わば
 一片の氷心玉壺にあり
 (芙蓉楼にて辛漸を送る)


宮沢さんの言葉③
 「社会的蓄積や、美観など質の面でも、真に先進国と誇れるような、活力と潤いに満ちた『生活大国』づくりを進めたい。」’91年11月宮沢内閣成立の所信表明。

 

安部晋三さんの世代では、(漢詩からの引用が)出ないようになった。漢文の素養がないと、ムリな言葉である。宮沢さんは英語のエキスパートであるが、きちんと漢文の素養もある。 

 

 東大出で大蔵省に入る日本を代表するエリートであった。それを嫌がる人もいるが、知性はあった。今、これだけの教養のある人が代議士をやっているか。イニシャルトーク的に言えば、元総理のMさん、参議院のドンのAさん、ヤクザに負けない度胸はあるが、教養の面では、だいぶ格が落ちた人がボスだ。

Saka_2004_05_1_1榊原英資氏は、宮澤さんのすごいところとして、多くの政治家は二代目、三代目と家業として政治を私物化していくが、宮澤さんは家族が政治に関わったり、後を継ぐようなことは一切なかった。
 長女がアメリカの外交官と結婚しているが、それ以外いない。今の政治家が二代目、三代目のなる現状からすると、
宮澤さんが異色に見える。日本という国がそれだけ異常、この点がが案外知られていない。
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墓碑銘 
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コメント

「君はどこの大学を出たの?」と必ず学歴を聞いて、学歴のない人に嫌がられていたとか聞いたことがある。東大法学部を出ていないと、まともに相手にしなかったという学歴、学識を重んじる点が煙たがれていた。
 それなりの、日本人として恥じない教養と見識をもった政治家ではあったが、政治家としての人望という点では、首相として有資格者と思われていたのに、なかなか、首相の座に辿りつけず、競争相手の後塵を拝した面があった。 しかし、首相としての見識は十分あったのではないか、と思う。

投稿: Watcher | 2012年8月 8日 (水) 22時25分

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