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2007年5月 8日 (火)

末っ子長男 姉四人

Suekko3
「ウチのうどんは、モノが違う。どこにも負けやせん」これがおばさんの口ぐせで斜陽になっても、ますます強がっていた。

  おばさんとおじさんの家は、杉野町で赤「マル仙」という屋号でうどん(乾麺)製造業を営んでいた。倉前町から杉野町に流れる川で水車を使えたので、祖父がここを坂本から中津進出の足がかりにした場所である。

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  食糧難の戦中戦後、昭和30年代の半ばまでは、うどん製造(乾麺)の現場はにぎやかで、朝から工場ではモーターがうなっていた。
  機械から小麦を粉にして練り合わせて、柔らかなうどんが竹のクシ棒にかかって出てきた。一箱が一杯になると物干し場で干された。一日干すと、女たち総出で束にして包装した。

  私も子供のころ、使いでうどんを買いに行ったことがある。  買うといっても、現金で買うのではなく、小麦を背負って行って乾麺と現物交換が多かった。農家には現金がいらないから物々交換が好評だった。  私は買ったうどん(乾麺)が出てくるまでの待ち時間、周りの光景を見ていた。

  おば一族、女6、7人が並んで座り、流れ作業をしていた。干しあがった麺を1クシと半分をつかんで目方を秤り、揃え1束にした。細紙を乾麺の中央に掛け、クルクルと束にするおばさんたちの手早さは名人芸に見えた。うどん包装しながらのおしゃべりは、伯母を中心にした女たち団結の場所であり、「マル仙」イズム」の教育現場であり、他人の入り込む余地のない場所であった。

  待っている間、おしゃべりを聞かされることになる。
 たいていは、「おまえの親父は・・・」と、おばの弟である我が家の父の棚卸がひとしきり続く。亡くなった母の健康を考えての言葉だったかもしれないが、7人兄弟の6番目の私は「茄子だったら、お前は捨てられるトコだった」と、あっさり言われた。今考えれば、他愛のないおっしゃべりだろうが、年上の女たちのおしゃべりに少年の私が反論できるものではない。強い女性一族だった。

  昭和30年代半ば、ヒノキ木材をふんだんに使った別棟を乾麺の干し場に建てた。ヒノキの匂いがプンプンする新しい家は、おばさんの自慢だった。「便所だけで50万円だ」と、当時の感覚からすると相場の3倍か4倍の値段のようだった。長年働いて得た誇りをこういう形で表したのだろう。この頃から乾麺製造が斜陽になりかかった。

  昭和31年頃、ウチの風呂が故障したので、杉野町へ風呂を貰いに行った。離れの風呂場は泉町のお寺さんと接していた。帰りに、不二家のミルキー1箱呉れた。
  風呂の順番を待つ間に、
「名古屋のうどん屋(製麺所)が中津にできるらしいね」 大手の会社が進出してくるらしいと、情報を教えたつもりだったら、おばさんの逆鱗にふれたみたいだった。「ウチのうどんはな、モノが違う。どこが来たって負けやせん」と叱られたかっこうになった。たぶん、この頃が商売の分岐点になったようだ。
  うどん屋から、ガソリンスタンドに商売代えになった。

  おばさんとおじさんには4人の女の子以外に、男の子が二人いた。長男は太平洋戦争開始早々に戦死、末っ子洋吾さんが長男になった。 おばさんは末っ子洋吾さんを溺愛して可愛がっていた。洋吾さん、人がよくて、つい合いやすい先輩であった。
  ガソリンスタンドは、末っ子洋吾さんの指揮のもと、行われた。
  そして、ヒノキの豪邸を建てた直後、洋吾さんは結婚した。乾麺を配送している間に、馬篭で見つけたと言っていた。お嫁さんが私の同じ中津高校の数年後輩であったから、これからつきあいがしやすい家庭になりそうと思っていた。しかし、あっけなく彼は36歳で亡くなった。

  期待していた末弟の長男が死んで、強気のおばさんも気が弱くなった。
  私が行くと、「仏さんに線香上げてやってくれよ」と優しい物言いであった。洋吾さんの写真の飾ってある仏壇で手を合わせていると、おばさんはじっと後ろに座っていた。「きょうも一日仏壇の前に座っていた」と、淋しそうに言った。以前には歯牙にも掛けていなかっただろう甥っ子の私に悲しみを語った。
  帰ろうとすると、「これを持っていけ」と、乾麺をダンボール一箱呉れた。重いから困るなァと思ったが、もう昔日の強気のおばさんではなくなった、と感じた。

  おばさんは、お祖母さんの18歳の時の長女として生まれ、お祖父さんの事業、うどん製造の事業の従業員だった仙太郎さんと一緒にさせられた。そのせいか、おばさんはおじさんより強い人に見えた。

 祖父は米屋を本町に独立してのち、杉野町のうどん製造は長女である伯母と仙太郎さんが引き継いだ形になった。ただし、うどん製造の機材をすべて祖父から買い取る形であった、と聞いている。商取引としては当然ではあっても、娘である叔母の立場からは納得がいかない面もあったかもしれない。

  本町に移った米屋が繁盛するようになると、5人の妹たちは豪華な花嫁支度をしてもらって鉄道員、先生など、専業主婦専業のできるサラリーマンのもとに嫁いだ。すでに嫁した長女の伯母には縁のないことであった。
  祖父母は子沢山で、私の父を入れれば8人兄妹。妹たちが下に6人(一人は夭折)いたから、長女の伯母さんは従業員だった仙太郎さんに早々に嫁がされた。うどん製造は繁盛している店だったが、妹たちが専業主婦の家庭で幸せであればあるほど、姉である伯母の心は穏やかではなかった、かもしれない。

  嫁いだ妹たちが中津の町に集まっても、妹たちを自分の家に上げて歓待することはなかった。姉である伯母と妹の叔母たちとの間にほとんど交流がなかった。両者の間にミゾが生じているのは、子供の私のも感じられた。

  本職のうどん製造を十代から始めて、70越した歳でそれが立ち行かなくなれば、リストラにあったのも同然。気持ちの張りが切れてしまったのか。おじさんはヒノキの別棟ができても、そちらに居を移さず、工場兼住宅だった旧宅に一人で暮らしていた。食事も自分で作っているように見えた。酒が好きでいつ見ても赤ら顔しているから、妻も子も避けているようだった。
  甥っ子の私が通りかかると、赤い顔で親しげに声をかけてくれた。

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