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2007年5月 1日 (火)

ホワイトタイガー 白虎隊仕立て屋

Sitateya2         

 テイラー ホワイトタイガーは、「白虎隊」の英訳だった。この店名から叔父さんは、福島出身だな、とわかった。
 文京区に住んでいた叔父さんは、チョビヒゲを蓄えて威張っていたらしい。「らしい」というのは、私が上京した昭和33年にはもういなかったからだ。

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 ワンマンで、お針子に手をつけて、子どもを生ませた。妻である叔母は縫い物が出来ないから女中代わりで、若い女が妻の座に座っていた。
 生活費も充分でなく、叔母はいつ追い出されるか、ハラハラするような立場だった。それでも虎の子のお金五十万円を帯に隠し持っていた。札束はオヤジに見つからないように隠し続けていた。風呂に入るとき以外は肌身離さず持っていたが、とうとう見つけられて、汗が滲んで色の変った五十万円は取り上げられた、という。
 私が上京したのは叔父が死んで3年目くらいだったと思うが、叔母はまだその頃のことを思い出すと悔しそうだった。

 叔父はガンだとわかってから、私の長兄が勤めていた東京医科大付属病院に入院した。
 助からないとわかって、愛妾は自分の生んだM雄を置いて九州福岡へ帰った。 女の子に九州で再出発ができるように叔母が図ってやったと言えば聞こえはいいが、背負わなくていい苦労を選択し、叔母は50代半ばから成さぬ子を養育した。M雄に実母の存在を教えず、「お母さん」と呼ばせていた。

 臨終に叔父は「オレが悪かった」と謝り、叔母はその言葉で苦労が報いられたと思い泣き、すべてを許したそうだ。簡単に信じる単純さが、よきにつけ悪しきにつけ叔母の一生について回った。

 戦時中の爆撃下を文京区動坂周辺で居残っており、都立動坂病院敷地にあった防空壕が直撃弾を受け多くの死者を出したときも隣組責任者として活躍したらしい。不在地主の焼け野原を占拠してしまったのか、叔父は動坂に二軒家作を持っていた。叔父の残した家作土地は叔母が引き継ぐことになった。名義は娘になっていたが、それらが自分の物になって文句はなかったからか、叔母はそのへんの事情はあまり詳しくは語らなかった。

 昭和10年頃、靖国神社の境内で、和装で着飾った横向きポーズの叔母の写真が、田舎には何枚かあった。ハイカラな叔母がなお一層演出されて写っていた。斜向きポーズは誰が教えたのか、昭和20年前の女性の写真にこれが多い。これが、洋服仕立て屋をする前、写真屋をやっていた叔父が写した写真だ。

 バツイチの叔母は自分の産んだ長男を祖父母のもとに残し、中津川から逃げるようにして東京に行き、数年後彼氏を中津川へ連れてきた。その彼氏が叔父である。

 そのとき叔父が田舎の祖父母を撮った大きめの写真が何枚か残っている。小津安次郎映画の一場面のような写真だ。だいぶ姿勢を直して、時間かけて撮ったのがわかる。これらの写真も叔母と結婚するために小道具に使われているな、と今なら私にもわかる。田舎の人たちには「口八丁、手八丁の、いい男を連れてきた」との評判だったらしい。

 叔父の表の顔は、文京区を地盤にしていた鳩山一郎(鳩山邦夫、由紀夫のお祖父さん)の選挙参謀で文京区の番頭で地元の顔役だった。首相にまでなった鳩山一郎の子分をやっているのだから、地元では何でも自由自在の実力者だった。

 叔父が亡くなって四,五年後でも、叔父に世話になったという人が、
「姐さん」といって叔母にメシ食わせてもらいに来て数日泊まって行った。下宿していた私はヒマに任せてその人の相手になっていた。
「あの人がお礼にといって立派な革の財布を置いて行った」
 と、伯母はその財布を見せてくれた。もちろん財布の中はカラだが、後から「あの人はスリだ」と教えてくれた。

 従姉の話によると、高校に入るとき不合格になったので困っていると、「よし、何とかしてやる」と文京区内の音羽町にある私立女子高校へ乗り込んで、校長と面談、入学式の数日前の娘を入れてしまった。

 私は上京した当時、叔母には数年お世話になった。困ったときには親身になって気遣ってくれる優しい叔母だった。
 しかし、「人生の大事なところで、選択を間違える」と、兄であるウチの父はかつて言っていた。たしか、口のいうまい他人に騙されることが多かった。
 叔父の死後、店先をお茶屋さんに貸していて、この人に印鑑証明書を使われ借金の保証人にされて損したと、叔母はこぼしていた。

 その後、叔父から引継いだ家は都の区画整理で新しく建て直された。ところが、10数年後、その家も娘の夫となった男に権利書を持ち出され事業の担保にされた。借りた金を返済しなかったので差し押さえられて、平穏な生活から一朝にして叔母は身ぐるみ剥がされるように家から追い出された。

 家財を外に放り出されたその日、叔母は執行人に狂ったように文句言っていたらしいが、後の祭り。叔父から受け継いだ不動産は一切なくなってしまった。

 その後、娘と同居したが、東京にも居ずらいのか、祖父母の実子にして置いてきた息子の中津川の家(実家)に時々来た。滞在が長くなると、田舎の実子にも厄介視され、東京へ帰ってもらいたい様子に見えた。

 92歳で亡くなったとき、新宿の葬儀場で、昭和30年代に世話になったメンバーが一同に会した。
 かつて叔母に世話になった双子を生んだ従姉、田舎の先生から東京に出てきた従兄、今は養子先で水道工事の会社の社長なった仕立て屋修行中だった男の子、弁護士を目指し勉強中だった従弟、「お母さん」と呼んで育ててもらった息子も来ていた。身内全員が集まった。

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