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2007年5月28日 (月)

村田蔵六(大村益次郎)46歳で死す

Omuramasujiro 村田蔵六年表 三田尻(現在の防府)の蘭医梅田幽斎に医術を学んだ後、大坂の適塾で緒方洪庵に学び、塾頭にまで上った秀才。1850(嘉永3)年に長州へ戻って開業する。福澤諭吉も塾頭になっているが、村田蔵六が諭吉の先輩。諭吉の才走った行動に好感ををもっていなかったので、ほとんど交流がない。

適塾を卒業後、宇和島で父の医院の跡継ぎ医師をした。村の医師として歳月を過ごすが、開業医としては特に繁盛した様子はない。「お暑うございます」と村人に挨拶されても、「夏は暑いのは当たり前」とか、「よい天気で」と言われると「見ればわかる」と応えたそうだ。村人との挨拶、会話が成り立たないから、医師として父親より人気がなく繁盛していなかった。(司馬遼太郎の受け売り)

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00002_33 数年も経たないうちに、1853(嘉永6)年に伊予宇和島藩主伊達宗城に迎えられて兵学・蘭学などの講義を行なう。1857(安政4)年には幕府講武所教授となった。その後、請われて長州藩に出仕し、兵学の講義などを行ない、藩の軍制整備に着手。村医者から、運命が一転する。

1866(慶応2)年の幕府軍の第二次長州征伐に際しては、長州藩参謀として戦略を立て、自らも兵を率いて石州口から石見浜田まで進撃した。この辺りの運命は、山口県周防(三田尻)の村医から、長州藩の重役だった木戸に見出されたことによる。

Tizutaima 政府軍として浜田藩と援軍・福山藩とが、長州藩と最も熾烈な戦いを演じた。場所は石州口(益田市)の戦である。長州による近代武器で浜田城は落城する。浜田藩内にある(長州に加担した)津和野藩の飛地(三隅町井野)に住いする三浦長兵衛の手引で長州軍は浜田藩と援軍・福山藩の陣地を無血占領した。蔵六(大村益次郎)は、ここから攻城戦を指揮した。

その後、1868(明治元)年からの戊辰戦争では各地を転戦。江戸幕府の(開城命令に従わない)彰義隊が上野寛永寺では立て篭もったが、本郷東大からアームストロング砲を打ち込み、わずか1日で殲滅した。これは、村田蔵六の近代戦法に対する慧眼によるもの。

新政府でも軍制整備を担当。兵部大輔に任ぜられるが、徴兵制の導入をめぐって士族の反発を買い、1869(明治2)年に滞在中の京都で刺客に襲われ、2ヵ月後に大坂で没した。享年46。

大阪の病院に入院している間、横浜にいたおイネさん(シーボルトの娘)が駆けつけ、熱心に看病した。妻が故郷の鋳銭司村にいたが彼の元へ駆けつけることはなかった。イネは看護知識に詳しいとはいえ、村田蔵六とは特別親密な間柄という印象を与える。若かりし頃、イネの面倒をみて同じ屋根の下で暮らした同士、兄弟の意識があるのか、もっと親しい関係であったのか、その辺は微妙。司馬遼太郎も小説の上では、どちらにも取れるような書き方である。シーボルトの娘イネには、誰とも結婚していないから、子孫はいない。と、思っていたが、イネは結婚はしていないが、石井宗謙の子供娘の楠本高子を産んでいる。(投稿: N.Kさんからの忠告で訂正 せつあんさんからの忠告で、追加訂正)

楠本 高子(くすもと たかこ、嘉永5年2月7日(1852年2月26日) - 昭和13年(1938年)7 月18日)13歳まで長崎の祖母・お滝の元で育つ。14歳の時に母の師・二宮敬作の縁により宇和島藩の奥女中として奉公を始める。
1866年三瀬諸淵(高子16歳、本名三瀬周三、シーボルト門下の医者、二宮敬作の甥)と結婚。1877年高子27歳に夫に先立たれた、異母兄・石井信義の元で産婦人科を学んだ。しかし、その中で医師・片桐重明との間に周三(恩師の反対で結婚できなかった。子供の名前は三瀬の名前を付けた。後に母イネの養子)を生み、医業の道は断念した。その直後に医師・山脇泰助と再婚、一男二女を生むが、結婚7年目に先立たれた。高子35歳。その後は東京で母のイネと共に暮らした

村田蔵六は、二宮敬作に頼まれ、イネの教育掛に任ぜられ、イネと同じ家に暮らした。イネが西洋シャボン(石鹸)で村田蔵六の髪を洗ってやるとか、蔵六が日本にはない鉛筆をイネにプレゼントする話などは、多分作り話だろうが、まあ、許されるぎりぎりの創作かな、と思う。しかし、調べようにも調べられない部分は小説家の腕の見せ所である。

新政府になって、村田蔵六は、どんどん必要な手を順次打って、明治政府を作る作業に熱中していたから、周りから疎まれることが多くあった。学者に近い感覚で、先へ先へと進めていたが、嫉妬やねたみ、利に走るものからは、政治力のない蔵六をはじき出そうとする勢力が渦巻いているのに気づいていなかった。

才能も能力もないのに、藩閥から登用されてきた役人が多かったのだろう。村田蔵六には、故郷の村人と同じで、木で鼻をくくるような挨拶を交わしていたのだろう。バカに何を言っても通じないとでも思っていたのかもしれない。

「斬るべし」という雰囲気が高まってきても、気づいていないのか、無視していたのか、警戒している様子はなかった。その日も、湯豆腐を食っていたらしい。暴漢が入ってくるも簡単だったようだ。斬られたあと、蔵六は風呂場の浴槽に入って、暴漢が去るまで隠れていた。傷跡が水に長く浸かっていて重症になったと言われる。

シーボルトの娘おイネさんが長崎がら駆け付けで治療に当る。彼女とは、親密な愛人関係であるような、ないような表現で司馬遼太郎は書いているが、実際はどうなんだろう。

Youngine2イネはこんなに不細工ではないと思いたい。

藤野先生が「村田蔵六がおイネさんと住んでいたころ、二人の間に何かあったと思いますか」藤野先生は弟子たちから恐れられている、石のような人です。私(司馬遼太郎)は、そんな話題が出るとは思ってもみませんでした。「自分だったら大丈夫かな、大丈夫ではないかな」ま、自分も蔵六も我慢できると思ったものですから、「何もなかったでしょう」と答えたのです。藤野先生は「私はあったと思います」言いました。堅い堅い教授が、実にうれしそうな顔をされていました。蔵六には奥さんがいましたが、ちょっとヒステリーなところがあったようですね。蔵六は京都でテロルに倒れ、風呂場に逃げ込み、たまり水の中のバイ菌が傷に入り、亡くなります。
 何十日か大阪の病院(法円坂)におりました。その病院に奥さんは来ませんでした。おイネさんがずっと看病していました。おイネさんは宇和島を出たあと、そのころ横浜にいたと思います。日本で最初の看護婦の免許の持ち主でもありますから、看病していても不思議ではありません。しかしやはり、並々ならぬことであったと思います。「きっと宇和島で何かあったんですな」と藤野先生も、蔵六も堅い人ですから、真実はわかりません。

Takasugisinsaku 高杉晋作 二ヶ月後、その傷がもとで、大村益次郎(村田蔵六)は死亡する。明治政府の軍制を確立した功績で、靖国神社で銅像として残っている。明治になって活躍したら、もっといい政府になっただろう人材が消えている。坂本龍馬、村田蔵六、高杉晋作など、役立ちそうな人材は早くに死んだ。長く政府内で残るのは二流の人物が私利私欲で政府内で組織を作り、後の路線を作っている。汚職などその中で起こっている。

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コメント

Webでシーボルトを検索してたどり着きました。
突然ですみません…シーボルトの娘のおイネさんは、
生涯独身でしたが子供を一人産んでおられます。
いわゆるシングルマザーですね。
おイネさんの娘が楠本高子さんで、
その子孫も生存しておられますよ。

投稿: N.K | 2009年1月 3日 (土) 19時12分

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