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2007年4月 5日 (木)

乙武 洋匡 小学校の先生になった

Otoprofile 2007年4月から乙武 洋匡おとたけ ひろただが、小学校の先生として就任した。(2010年3月、3年間勤めて、彼は小学校を辞めた。任用されるとき、乙武さんの任期は3~5年になる見通し、とある)

テレビは彼が就任式に挨拶をしていえる画像を放送していた。その前に、4週間教育実習に行った学校で、子供と相撲を取っている姿、サッカーをしている姿を写していた。手も足もない彼が、あえて見せている点がちょっと気になっているが、彼の真剣さに見えた。

また彼特有のアピールをしているようにも見えても、これは革新的な彼の行動だ。彼が先頭に立って、障害児が堂々と社会に溶け込むことができればこれはいいことだ。

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乙武洋匡さん:4月から東京・杉並の小学校教諭に   教員免許を取得してOtotake2000p_size6 笑顔を見せる乙武洋匡さん 「五体不満足」の著者でスポーツライターの乙武洋匡(おとたけひろただ)さん(30)が4月から、東京都杉並区の小学校教諭に採用されることになった。現在も新宿区の非常勤職員として区内の小中学校を見回っているが、春からは常勤で教壇に立つ。「行き届かない部分もあるかもしれないが、僕にしか出来ないこともある」と乙武さんは張り切っている。

 乙武さんはスポーツライターの傍ら教員免許の取得を目指し、05年4月から明星大人文学部の通信課程で学んできた。昨年10月には新宿区内の小学校で教育実習を行い、2年生のクラスを受け持った。授業では、あごと左腕にチョークを挟んで板書。パソコンに入力した字が映し出されるプロジェクターを使ったり、事前に準備したプリントを多用して他の教諭と差が出ないような工夫を凝らし、「思ったより不都合は生じなかった」と話す。体育は口頭で指導した。

 子どもたちが騒ぎ、「口で言っても収拾がつかなかったらどうしようか」と不安だったが、実習中はそんなこともなく、教師からは「声は良く通る」と評価された。

 今年2月16日に教員免許を取得。日常生活でも子どもたちと向き合う覚悟をし、「一人一人の違いを認め合い、それぞれの良さを本人に気づかせていきたい」と乙武さん。想定外の事態にも、大きな声で児童の心の奥底に訴え、クラスをまとめていく考えだ。

 杉並区では今月、教育分野でも有能な民間人を引き抜くため、区職員の採用に関する条例を改正し、任期付きで小中学校の教員としても採用できるようにした。子どもの能力を伸ばすだけでなく、指導方法を他の教諭に見習ってもらい、学校を活性化するのが狙いで、最初に乙武さんに白羽の矢が立った。

 関係者によると、区は新年度からの任期付き教員の候補として、このほか元オリンピック選手ら数人を検討。乙武さんの任期は3~5年になる見通しだ。【奥山智己】毎日新聞 2007年3月19日 15時00分

 乙武先生がまだ実習中のとき、小学生は近寄って、先生の手を触って確かめているようだった。乙武先生も小学生に自分の短い手をあえて触らせていた。普通なら、自分の正常の人の手とは違うものは見せたくないだろう。そのレベルを超えていないと、身体的な不具合を見せる勇気がないだろう。

 自分が「ホモである」とか、「性同一性障害」だとかいうのと同じ、一種のカミングアウトかもしれない。保坂ナオキの得度を受けるのも同じ皮を破って実行したが、乙武先生は皮を破る前に障害が武器になっている。

 彼の行動で障害者が普通の人と同じレベルで活動するし、意識も同じで行動できるんだ、自立するし、助けてもらいたいときは、助けてもらう、そう宣言している。

 哀れみではなく、上から下への同情は求めていない。ここが今必要なんだと思う。特別学級に障害児を入れたり、知能の低い子を隔離する考え方では、普通の子の意識も成長しないし、隔離された子も普通の子との交流がないゆえに同情ばかりを要求する子になってしまう。

多くの人と接して、それを糧にして成長しているのがわかる。その写真

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
乙武 洋匡(おとたけ ひろただ、1976年4月6日 - )スポーツライター。
東京都立戸山高等学校、早稲田大学政治経済学部卒業。先天性四肢切断(生まれつき両腕両脚がない)という障害を持っており、電動車椅子を使用している。

大学時代に早稲田のまちづくり活動に参加。このまちづくり活動を取材したNHKの番組出演がきっかけで、障害者としての生活体験をつづった『五体不満足』を執筆出版。屈託のない個性と「障害は個性」というメッセージで大ベストセラーとなった。学生時代から報道番組にサブキャスターとして出演。“障害者である事を売りにしている”と批判もある。2000年2月に都民文化栄誉章を受賞。

卒業後、スポーツライターとしてジャーナリズムでげ活躍しつつ、2005年、新宿区の非常勤職員として「子どもの生き方パートナー」に就任。また同じ2005年から小学校教諭免許状を取得するために、玉川大学通信教育部に学士入学し、教員免許状取得。以前からの教育への関心に加え、長崎男児誘拐殺人事件などをきっかけに、子どもの人格形成への責任という問題意識を抱いた。

大学卒業後は、明星大学通信教育課程人文学部へ学士入学し、教員免許状取得。2007年2月に小学校教諭二種免許状を取得。同年4月より杉並区任期つき教員として杉並区立杉並第四小学校に勤務。2008年1月3日に第1子(長男)が誕生している。

もう一つの観点で興味があったのは、彼の家族の様子だ。彼一人でここまで育ってきたわけではないはずだ。それを示すページがあった。彼の父は60歳で亡くなったと書かれていた。きっと話しておきたいことがきっとたくさんあったにちがいない。以下は乙武先生の文章だ。

病院を抜け出して薔薇の花束を 乙武洋匡父の柩にそっと納めた「25年目の誓い」 

 今年の5月11日、父は肝不全で亡くなった。この7、8年は入退院を繰り返す状態だった。 60歳という若さでの早逝にもかかわらず、母も僕も冷静に別れることができたのは、家族思いの彼の明るさに助けられたからだと思う。

 こんなこともあった。
 入院中、母は1日も欠かさず見舞いに通っていた。その日もいつものように病院へ出かける準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。何かと思ってドアを開けると、病室で寝ているはずの父が大きな薔薇の花束を抱えていた。その日は母の誕生日。驚かそうと、内緒で外泊届を出し帰ってきたのだった。
 普段の彼も、親だから偉いとか息子だから言うことをきけといった雰囲気はなく、誰にでも親しく接していた。僕とも友達同士のように、言いたいことの言い合える関係だ。
 父方の祖父が封建的な人で、一家の主が帰宅したときにはどんなに遅くても子供が起きていなければならないといった厳しい家だった。父は父親とあまり良い関係が築けなかったという思いが強かったようで、それだけに自分は息子ときちんと向かい合おうとしたのかもしれない。

 両手足のない僕が生まれたとき、産後で衰弱している母への精神的な影響を気遣い、父は黄疸がひどいからという理由で1カ月ほど母を息子から離した。その間、僕をどう育てるか、どう母と対面させるか、そういうことをすべて一人で背負っていたのだ。僕がその立場だったらとても抱えきれないだろう。
 幼児期に僕が我が侭を言うようになると、父と母は相当話し合ったらしい。障害のある子を育てる以上、厳しくしつけて我慢を覚えるよう矯正するのがいいのか、それとも自由に振る舞わせて我を強く持っているほうが、将来親を離れても逞しく生きていくのではないか。そして彼らは、僕がやりたがることはやらせて、自分たちも息子に自然に接することを選んだ。今の状態に満足しているから言えることなのかもしれないが、この選択には感謝している。

 冒頭の誕生日の挿話を挙げるまでもなく夫婦仲は良かった。休日など、僕が起きる頃にはすでに家に誰もいない。夫婦一緒に出かけるのが常だったのだ。わりと早い時期から僕は結婚願望が強かったのだが、それも父と母の姿を見ていたからだ。
 しかし、あまりに仲の良い両親だったので、自分が結婚するまでは、ここまで理想的な家庭を自分も築くことができるだろうか、と不安に感じることもあった。今では、自分たちなりのペースで、自分たちなりの関係がつくれればと思っている。

 小学校から大学まで、入学式と卒業式にも必ず父は母と一緒に出席してくれた。大抵の家は父親が来るのは小学校くらいまでで、あとは母親だけが来ていた。しかも高校や大学は式典も平日だ。父は息子のために仕事を休んで来ていたのだ。周りは母親ばかりで居心地悪いだろうと思うのだが、構わずに僕の門出を祝い続けてくれた。
 高校や大学のときは、僕の家が友達の溜まり場になっていた。女友達が父に会うと大抵、彼のファンになった。親というより仲間に近い親しい態度で話し、茶目っ気もあり年を感じさせない。家に友人が集まったのも、悔しいが僕より父が目当てだったのかもしれない。
 父の仕事が終わったあとに待ち合わせて食事に行くことも多かったが、そういうときに外で会っても、同性として嫉妬を覚えるほどだった。建築家という職業柄かシャツにジャケットを羽織るだけなど身綺麗にしていた。特別に目鼻立ちが整っているのでもスマートでもないのだが、自分をとてもよくわかっているのだろう。着こなしや身だしなみが洒落ていた。僕も洋服が好きで髪形なども気を使っているが敵わない。男の色気のようなものがある。自分が彼の年齢のときにこういうふうにいられるだろうか。

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コメント

2007年4月から乙武 洋匡おとたけ ひろただが、小学校の先生として就任した。そして、2010年3月、3年間の約束期間が終わり、やめた。

 彼にとって、一生の仕事として、教員で終わるという考え方ではないと見えた。自分の将来を見据え考えての行動のようだ。

投稿: | 2010年9月10日 (金) 10時56分

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