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2007年4月21日 (土)

戦争の影響 疎開、食料など

Sokai 戦後の映画は、よく疎開が出てきて、都会っ子は田舎の子にいじめられる話があった。ところが、最近は、疎開、学童疎開なんて死語に近くなった。

この投書「声」の記事を読んでいたら、「夕焼け小焼け」を歌おうものなら、また泣いてしまうのです・・・、と書いてある部分で、泣けた。簡単に涙が出る私にも困るが、戦争の特集投書で、戦地に出るときの感慨も、戦地で上官に殴られる話もあったが、戦争で何が悲しいかって、子供に悲しみを与えるのが一番いけない。それが戦争の一番許されない点だ。

疎開しても、大多数の子供は、なんとか田舎の生活になじんでいく。私の町は岐阜県も長野県よりの田舎で、空襲にもあわない場所だったので、兄姉達が疎開しなければならないことはなかった。

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親戚縁故で疎開してきた子が、中津の町にもアチコチにいた。そういう子は、身キレイな賢い子が多かった。土着中津川の子とセンスが違う、そういう印象があった。しかし、終戦と共に都会へかえってしまった。それでも、都会的な子が中学生になる頃までいた。

岐阜県中津川市にも、小学校時代には、都会から縁故で疎開してきて、戦争が終わっても帰らない子がいた。竪清水町にいた矢沢兄弟、都会的なスマートな子がいた。昭和27年ころまで中津で暮らしていた。大抵は昭和22年までには、岡部さんのように都会の自宅へ戻った。昭和25年ころまでいると、田舎の子に溶け込む。教会の前に大柄な女の子がいたがあの子も疎開だったかも。昭和24年にはいなくなった。スケートのうまい菅井君は本州関係の子だったが、あの子は疎開だったか、わからない。

増えたのは、樺太からの引き上げが、昭和22年とか、その頃、王子製紙樺太工場の関係で、尾鳩の本州製紙へ引き揚げてきた子達だった。毎月のように生徒が編入してきた。北朝鮮の鉄道に勤めていた親戚の子や、満州、中国からも引き上げの子がいた。あの子らが来たころ、日本中がゴタゴタだった。一クラス50人なんて当たり前、60人くらいになった。それが一学年4クラスが6学年あった。

私は学校に行く年齢に達していなかったから、戦争の影響はとくになかった。姉は小学校1年生で、空襲警報が「ウーウー」と町中響くと、子供は早退して帰ってきた。低学年はそのまま帰宅だったが、上級生はまた学校へ行くこともあった。

姉が学校から借りてくる講談社の絵本が私には楽しみだった。カエルが牛の大きさを表現するために腹を膨らませて破裂してしまう。イソップとは知らなかったが、面白かった。リンカーンが本を借りて雨にぬらしてしまって、働いて返す話を読んだ気がする。アメリカの話だと思うが、まだ学校の本棚にあったんだ。

終戦間際でも、ラジオの情報、特に敵機が何機、ドコドコ方面から来たなど、という情報は伝えられていた。警戒警報が流される前、特殊の音響効果で「ジャー、ジャー、警報、警報」と子供はアナウンサーの口真似していたが、緊張感が漂っていた。

もちろんテレビもない時代だから、ラジオの子供番組が楽しみだった。昭和十九年十一月制定 国民合唱曲お山の杉の子」椎の木林のすぐそばに小さな杉の木があったとさ。あったとさ。これこれ、杉の子、起きなさい。・・・そんな調子のたわいない歌がよく歌われていた。3番までは、歌えたが今はうろ覚えだ。

作詞:吉田 テフ子  補作詞:サトウ ハチロー
作曲:佐々木 すぐる 著作権:無信託(詞)、有(曲)

一、
むかしむかし そのむかし
椎の木林の すぐそばに
小さなお山が あったとさ あったとさ
丸々坊主の 禿山は
いつでもみんなの 笑いもの
これこれ杉の子 起きなさい
お日さまニコニコ 声かけた 声かけた

二、
一ィ二ゥ三ィ四ォ 五ィ六ゥ七ァ
八日九日 十日たち
ニョッキリ芽が出る 山の上 山の上
小さな杉の子 顔出して
はいはいお日さま 今日は
これを眺めた 椎の木は
アッハハのアッハハと 大笑い 大笑い

三、
こんなちび助 何になる
びっくり仰天 杉の子は
おもわずお首を ひっこめた ひっこめた
ひっこめながらも 考えた
なんの負けるか今に見ろ
大きくなって 国のため
お役に立って みせまする みせまする
 

隣組の歌は、トントントンカラリンと隣組、回して頂戴、回覧板。教えたり、教えられたり・・・と隣組の強化を訴える子供から浸透させる歌だった。

んとん とんからりと 隣組
こうしをあければ 顔なじみ
回してちょうだい 回覧板
知らせられたり 知らせたり


とんとんとんからりと隣組
あれこれ面倒味噌醤油
ご飯の炊き方垣根越し
教えられたり教えたり


とんとん とんからりと 隣組
地震やかみなり 火事泥棒
たがいに役立つ 用心棒
助けられたり 助けたり


恵比寿神社の中で、竹やりの練習があったり、バケツリレーで消火練習をしていた。妊婦だった母は体力のいる練習は免除はされていたりしたが、それでもバクダンが落ちたら、両手の指を使って両目、両耳、鼻、口をふさぐ練習を畳に顔を伏せて幼児の私に教えた。

家の前には、雨水をためる水槽があった。火事の際の防火用水である。ぼうふらが湧くからと釣ってきた魚を入れたりしていた。家の軒先には砂袋がぶる下がっていた。これは焼夷弾が落ちたときは水では消えないからだ。中津の町は結局、一発のバクダンも落ちなかった。隣りの坂下町(合併で現中津川市)では、河川で焚き火をしていたところに、爆撃帰りの戦闘機からあまった爆弾を落とされた、という話は聞いた。

隣組で鉄瓶、銅銭、アイロンなど、鉄など金属は供出させられた。幼児だった私は、それを選別すつ大きい姉の横で見ていた。炭を買うにも、服地を買うにも配給券が必要だった。ボタンや帽子の校章が瀬戸物になった、ソケットが磁器で作られていた。特に美濃地方だからかもしれないが、陶磁器で相当の部分が代用されていた。

中津川、四つ目川の橋の欄干の鉄枠はことごとく剥ぎ取られて供出させられた。寺の梵鐘が釜石の鉄工所へ送られたのと同じ時期だ。欄干が無様な半分壊れた姿で、昭和40年代以降に改修されるまで放置されていた。

四つ目川の上流に今職業安定所(ハローワーク)が宮町側にあるが、そこは空き地で松の根っこがゴロゴロ放置されていた。松の根から油を絞って石油の代わりに「松根油ショウコンユ」を取る工場だった。多分これは政府の肝いりで作られたのだろうが、武士の商法ならぬ、役人の机上論で失敗したろう。石油に代わって「松根油ショウコンユ」で飛行機が飛んだなんて聞かなかったな。この「松根油ショウコンユ」は全国規模で取ろうとした。

アメリカは日本の計画を承知していたが、余りに労力を必要としており、できる松根油は余りに少なすぎ、数年で日本の松は一本もなくなる。ばかげた計画だと批評している。http://www1.ocn.ne.jp/~susuma/pineoil/pineoil6.htm

問題は日常の食料である。食料の配給はあったが、少なかったはずだ。どこの家でも、ご飯を増やすために雑炊にした。その中に大根を刻んで入れた。大根めしだ。そのうちに山へ行って食べられる木の葉を取ってきて、入れた。先日、70代の方に「これが(食べられる)ビョウブの葉だ」と教えられたが、いまだによくわからない。野菜の代わりだが、喉越しは悪いし、味はない。

小学校の5年だった兄が、近所に人について前山の上のほうに取りに行った。みんな竹篭を背負って、一杯になるまでとってきた。生活のために小学生も高学年になると懸命だった。

ウチではニワトリを飼っていたので、世話が子供の仕事だった。ニワトリのえさに土手のオオバコの葉を刻んで入れたり、兄と田んぼでトノサマガエルを捕まえ、刻んでいれた。蛋白源をニワトリに食わせると、タマゴの黄身が濃くなる、と言っていた。

戦後読んだ「少年期」(波多野勤子著)著者の息子達の少年時代を書いた本だが、ニワトリに餌にまぜて栄養補助剤のエビオス?を食わせたと書いてあった。当時の少年たちは、栄養を取るためにいろいろ考えていたようだ。

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