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2007年4月23日 (月)

近江絹糸「人権スト」中津川工場

Omikennsi5_1 

1954年(昭和29年)六月~九月まで続いた

00143駅前通りの緑町一角が近江絹糸であるのは誰もが知ってはいた。しかし、塀でかこまれ、町の中に孤立した不思議な場所は、その中がどうなっているか、知られていなかった。
 今その場所は巨大スーパー「アピタ」となっている。近江絹糸「人権スト」と呼ばれた大騒動が起こった場所である。

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00485  連日「人権スト」と新聞などで騒がれた。昔の野麦峠の「女工哀史」を引きずった感覚で一族経営をしていると、世間は知った。最初、中津以外の工場(近江絹糸彦根工場)から騒動が起こった。これが実に半年以上、連日新聞報道され続けた。

 昭和29年の夏だったと思う。中津の近江絹糸の従業員が列を作って、町中をプラカードを立ってデモ行進した。新町、本町から横町に向って進んで行った。この頃になると、一般の人々の中に従業員に対する同情が生まれていた。しかし、女子工員の多くは外をデモ行進するなど、勝手が違うというか、みんなに見られてなんか恥ずかしそうな様子だった。権利回復は当然のことだったが、まだ人権を無視された扱いに対して意識は低かった。

00486  中津は革新的風土が強いので、市内にある労働組合が一斉に「人権スト」に共鳴して、町の中で集会を開くことになった。秋口のある日、中津だけでなく近隣の市町村から労働組合と名のつく組織はすべて集まるという。動員数は一万人だという話だった。

 それに対して、警察は危機感を持った。占領下ではないが、かっての2.1ゼネストを断念した記憶が消えていないときだから、一万の労働組合員が集まるとなると、一波乱が起きても不思議ではない。町中に緊張が走っていた。

 子どもは見に行ってはいけないと止められたが、中学生の私は友達と町へ見に行った。夕方近かったが、まだまだ明るかった。大勢の一般市民は火事場見物のように立っていた。私も、「梅信」の近くから大人の群れの中に入って様子を見た。

 岐阜県警が中心になるべきだったろうに、何故か愛知県警、機動隊が並んでいた。名古屋ナンバーの装甲車が駅前から十一屋旅館、梅信の近くの道路までびっしり並んで威圧していた。機動隊員がヘルメットに出動服を着て、長い金剛杖のようなものを持って警戒して立っているから、道路は封鎖された状態だった。

 銅線を売りに行った駒場の古物商のおじさんに会ってしまった。
「あぶないから、帰ろよ!」
 そう言われても、こんな緊張感のあるおもしろい見物はない。火事よりめずらしい出来事だ。中津のような田舎に装甲車が列をなして集まるなんてないだろう。案外人だかりの前で見物していた。

 誰もが、今夜集会が行われたあと一波乱が起こると予想していた。だからこそ、機動隊が来ているのだろう。一万人の集会といえば、中津では前代未聞の規模だから、警備当局としては警戒する。数時間は見ていていたが、何も変化はないし、日は暮れてきた。暗くなるから、帰ってしまった。これが子供の限界だった。

 思想的な背景はわからなかったが、人権ストから端を発して、体制破壊へと進ませようと画策するグループもあったのだろう。見た人によると集会は予定通り終わって、警察や機動隊が規制した中をデモ行進をしたという。

 その中で、この規制を破ってかなりの波乱が行われたらしい。子どもの寝静まった後の出来事だったので、知らない人には知らないでいてくれ、みたいなことで大きく報道はされなかった。 00008_160

  近江絹糸「人権スト」中津川工場 復員兵が帰ってきた 昭20年秋  文化新進会 戦後中津川市に新風 軒先で 朝からヒワが鳴いていた 市内の企業野球チームが盛んだった 紙芝居おじさん 神主が副業  保古沼でスケート カケ将棋に負けた平八先生  第五福竜丸のマグロを食べた家  中津に火事がよくあった頃       本町1丁目夕日シリーズ

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