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2007年4月 9日 (月)

カフカの小説と恋愛の軌跡・・・

Kahuka フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)は現在のチェコの小説家。ユダヤ人の家庭に生まれ、作品はドイツ語。

処刑の話 In der Strafkolonie
フランツ・カフカ Franz Kafka大久保ゆう訳 この小説は、インターネット上で無料公開され、いつでも読める。(文字サイズを大きくして読むと読みやすい)

将校はそれ以上訊ねようとせず、自分で機械のことを説明し始めた。
「この機械は――」
 将校が機械のシャフトをつかんで、体重をあずけた。
「――先の司令官の発明なのです。私は企画立案から完成するまで、すべてに携わりました。しかし、これを発明した栄誉は司令官にこそふさわしい。先の司令官のことはご存じですか? ご存じない。そうですね、この流刑地のメカニズムそのものが、彼の作品だと言っても過言ではありません。友人たる我々は、司令官がお亡くなりになったとき、もう気づいていたのです。この流刑地は、それ自体で一個の完成品であり、後任の司令官にどんな新しい考えがあろうと、この先少なくとも数十年は、このやり方でやっていけるだろう、とね。まったくその通りで、後任の司令官もその点を認めざるをえませんでした。しかし先の司令官をご存じないとは、まったく残念です。さて――」

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訳した人は、「カフカは難しくなんかない、面白いのだ。」と言いたかったのだとか。一つの処刑の場面を描写しながら、そこで処刑の器具を発明した将校が旅人に得々と説明していると、囚人を許して・・・事態が進んで、気づくと処刑の道具が将校を処刑してしまう。そんな展開を小説で表現する。綿密すぎて、現代の読者はまどろっこしいかもしれない。私も現代読者で、結論はどいうなっているのか、知りたくなった。

 この、「カフカは難しくなんかない、面白いのだ。」はいささか主観的なきらいがあるが、これまで考えられていたようにただ不条理で難解なだけのイメージを払拭してもらいたいという意図を込めている。この作品をもって、カフカという作家の扉を興味深く開いてもらえば、訳者も幸いである。

不条理、難解という評価のあるカフカ、その作品より人生、恋愛の顛末は、朝日新聞の「絆を解かれた恋人たち」というbeSaturday土曜版に載っていた。

Kahuk2a 1883年プラハで宝石商を営むユダヤ人の家庭に生まれる。当時オーストリア・ハンガリーのプラハで公用語はドイツ語で、カフカもドイツ語を母語教育を受けた。家庭は西欧的な同化ユダヤ人だったのでほとんど、自らをユダヤ人と意識 することはなかった。

Kahuka01mapカフカの作品に影響を与えているのは父との関係である。痩身長躯で芸術家肌の性格だったカフカに対して、父は恰幅よく活動的で貧しさの中から裕福な家庭を築いた。カフカは父に強い劣等感を持っていた。強力な家父長としての父の存在は、女性との正常な関係を持つことにも悪影響を与えた。カフカは生涯に四人の女性と親密な関係になったが、そのいずれともうまくいかなかった。最初の交際相手フェリーツェ・バウアーとは2回婚約して2回破談になったKafkahouse_1 朝日新聞からの引用(一部リライト)

1912年 ライプツィヒ、ワイマールを旅行。ハルツの自然療養所ユンクボルンに滞在。プラハでェリーツェ・バウアー(Felice Bauer)に出会う。9月、文通開始。『判決』『変身』。
1913年 
フェリーツェとの文通さかん。3月末『火夫』
1914年 6月1日、ベルリンでフェリーツェと婚。7月12日、婚約破棄。8月初め『審判』。『流刑地にて』。

Kafkathumb
1915年 1月、婚約破棄後初めてフェリーツェと会う。フォンターネ賞を受賞した作家カール・シュテルンハイムから賞賛の証として賞金を譲られる。
1916年 再びフェリーツェと親密になり7月マリエンバートで休暇をともに過ごす。
1917年 二度目のフェリーツェと婚約。9月4日、結核と診断される。12月、二度目の婚約破棄。
1918年 妹オットラの運営する農場で療養。多くのアフォリスムを書く。
1919年 夏、シナゴーグ管理人の娘ユーリエ・ヴォフリゼクと婚約。11月『父への手紙』。
1920年 4月、南チロル・メラーン(メラーノ)で病気休暇。チェコ人作家ミレナ・イェセンスカー・ポラク(Milena Jesenska-Pollak)との文通開始。7月、ユーリエとの婚約破棄。12月から翌年8月までマトリアリーで湯治。
1922年 1月末から2月半ばまでシュピンドラーミューレ(Spindlermuhle/?pindler?v Mlyn)に滞在。『城』『断食芸人』。7月1日より年金を受ける。6月末から9月までターボルの南、ボヘミアの森のプラーナ・アン・デア・ルシュニッツ(Plana an der Luschnitz/Plana nad Lu?nici)に滞在。
1923年 ドイツ・バルト海沿岸のミューリッツ(w:Muritz)でユダヤ人女性ドーラ・デューマントと出会う。9月、ベルリンに引っ越しドーラと共同生活。『小さな女』。
1924年 健康状態悪化。3月プラハに戻る。『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠の一族』。4月からウィーン近郊のサナトリウムに滞在。作品集『断食芸人』の校正。6月3日死去。6月11日プラハのユダヤ人墓地に埋葬される。

カフカは肉体的劣等感から、健康には非常に気をつかい、ヒポコンデリー(=心気症)気味なところがあった。健康に気をつかったが、1917年に結核と診断され、様々な保養地を回る。

カフカの作品は読んだことがない。それで、この記事をきっかけで読んでみたが、今時のさっと読める作品ではない。味わうと、圧倒される。不思議な雰囲気が漂っているのは確かである。

また、女性との結婚についても、考えさせられる。父親の影におびえているのではないが、何をためらっているのか、ないゆえに踏み切れないの、常人にひはわかりにくい。

昼間ばかりの現代社会の日本には感じられない、当時のユダヤ社会と歴史的背景がそこのは横たわっていることを理解しないと、不条理とか難解な気分、これを実感できない。

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