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2007年3月 4日 (日)

志賀島「金印」漢委奴国王

Kininn03漢委奴国王かんのわのなのこくおう と刻印した金印を見せてもらったことがある。24金で、手に乗せると、どっしりと重みがあった。先生は鋳造彫金の第一人者で日展審査委員でもあった。日記クラブの副会長であった先生の世田谷区の御宅に年に一度は、会員十人程度で行かせて頂いた。

150pxkan_wana_kokuo_inbun 漢委奴國王印は、日本で出土した金製の王印(金印)。倭奴国王印(わのなのこくおうのいん)とも。1784年(天明4年)、福岡県福岡市東区志賀島で出土、福岡市博物館所蔵(福岡藩主黒田家旧蔵)。国宝に指定されている。

印は印面一辺2.3cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く高さ0.8cm、重さ108.7g。鈕は蛇鈕。3行にわけて篆書で『漢委奴国王』と刻されている。「委」は「倭」即ち倭国と解され「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じるのが通説である。

Kininn01 発見したのは甚兵衛という地元の百姓(近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを役所に提出した人物という説も有力である。)で、田の耕作中に偶然発見したとされる。現在は福岡市博物館に保管されている。

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Kaninakokuou 『後漢書』に「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」(建武中元二年(57年)、倭の奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす)という記述があり、後漢の光武帝が奴国からの朝賀使に(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされている。

中国漢代の制度では冊封された周辺諸国のうちで王号を持つものに対しては、諸侯王が授けられるよりも一段低い金の印が授けられる。詳しくは印綬の項を参照。

漢委奴国王印は、後漢の光武帝が当時の日本にあった小国家の君主に与えたものと見られている。

1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。それは58年に光武帝の子「劉荊」に下賜されたものであり、字体が漢委奴国王印と似通Kininn02 っていることなどから、2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いとの結論が出た。これが真実だとすれば、偽造説は完全に覆されることとなる。

異説・俗説  委奴を「いと(伊都国)」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」と訓じる説もある。  なお、漢代の漢字音では奴をド、トとは読めないというのが定説である。

「委」の字は「わ」とは読めないので、「かん ゐど こくおう」と読むべきであるとする説もある。印綬の形式が漢の礼制に合わないとして、私印説・偽造説もある。参照 倭の奴国と読む誤り 参照2

先生の作品は高価なもので、美術百科に写真つきで値段が書いてあるのによると、1点で50万円(最低価格)と書いてあったりした。東京都から依頼されて、作品が銀座の何丁目かにレリーフとしてはめ込まれているから、見てきてください。などといわれたことがあった。

たまたま先生宅を訪問したさいに、時々めずらしい所蔵品をだしてきて見せてくれた。その時は、金印を見せてもらた。大事そうに布でくるまれて、これは石膏で型を取って、作ったという話だった。本物と寸ぷん違わないものだ。

仕事場は見せてもらったことはないが、息子さんがあとをついでいるから、先生はもう悠悠自適の生活であったようだった。女子大の美術を出た女性が何人か、弟子として週何回か通って指導を受けているようだった。

江ノ島の弁財天像、それを本物の女性と比べて、写実的であるか研究をした。女性が横座りをすると、脇腹にしわが出来るかどうか、真剣に調べて写真に撮って、それを見せてもらった。この写真は女子大生の裸写真で、見せていいのか、どうか、先生は悩んでいた様子を思い出す。

もっと先生宅に続けて行けば、きっと秘蔵の品を見せてもらえたかもしれないが、先生は数年して知らせもなく、すーっと消えるように亡くなった。病んでいる話もなかった。

漢委奴国王」と刻印した金印をつくるのは、型さえとれば先生の工房ならいくらでも出来るだろう。だから、贋金つくりなら、いくらでもできると、冗談でいっていた。

鋳金の作品は先生の専門であるが、陶器での作品も作っておられた。色を出すのが難しいのだという話だった。日記クラブで私の司会をしたさい、赤い花瓶か、壺を記念に頂いた。形といい、色といい、先生の力作だ。そんな立派なものを頂いていいのか、迷うほどだった。田舎の家に持って帰り、父に預かって置いてほしいと頼んでおいた。父の死後、探しても出てこない。不思議な話だ。

先生の名は、会田富康。先生は、会田ともう一つ姓があって、井原だよ、西鶴なんだ、と冗談もおしゃっていた。

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