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2007年3月 7日 (水)

第五福竜丸のマグロを食べた家

Hibaku0301  保健所から係官2名が、ガイガー計数管を持ってわが家を訪ねてきた。 それを私は、少し離れた玄関わきで見ていた。
  
 昭和29年3月1日、第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカ軍の原爆実験で被爆したことが報道されると、世間は大騒動だった。しかし、中津の町で大騒動になるとは思わなかった。

 ところが、本町の「魚常」で焼津から仕入れたマグロを売ったことが、追跡調査で判明したので、保健所の係官がガイガー計数管を持って、購入者の家を一軒ずつ調査に回った。

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Ar0403 キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)第五福竜丸
1954年3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島近海において操業中に、ビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー(BRAVO)、1954年3月1日実施)に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物に、被爆した。
実験当時、第五福竜丸は米国が設定した危険水域外で操業をしていた。危険を察知して海域からの脱出を計ったが、延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。
後に米国は危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。このときの水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は、数百隻にのぼるとみられ、被爆者は2万人を越えるとみられている。これは、米国がこの爆弾の威力を4~8メガトンと見積もっていたためであったが、実際の威力は15メガトンであった。

0815atmic03  第五福竜丸の水爆災害(とりわけ久保山が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して息を引き取った事)は、当時の日本国内に強烈な反核運動を起こす結果となった。
 反核運動が反米運動へ移ることを恐れた米国は日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と「米国の責任を追及しないこと」の確約を日本政府から受け、事件の決着を図った。
 また事件が一般に報道されると「放射能マグロ」の大量廃棄や、放射能に対する漠たる不安感から魚肉の消費が落ち込むなど生活にも大きな影響を与えた。

太平洋のビキニ環礁で被爆するのも珍しい、第5福竜丸から陸揚したマグロ、これを食うのも宝くじに当たるようなものだから、ウチは大当たりだったかもしれない。
 
 海のない岐阜県の山がちな中津川でマグロを食べるのは、東京でマグロを食べるよりズーッと贅沢である。そういうマグロを購入してくれる家はそう多くはない。だから「魚常」のオジさんは「野沢」さんを覚えていていたのだろう。
 
 その日午後4時過ぎか、私が家にいると保健所の係官が訪ねてきた。いわゆるガイガー計数管をもっていた。父と母を放射能が残っているか調べていた。無線長の久保山さんが原爆症で死んでしまったくらいだから、日本中が大騒動だった。

 
 我が家で買ったマグロは、母は父と食べたが、子供の私たちは縁がなかった。食わせてもらっていなかった。
 母と父は、係官に調べてもらったら、帰ってもらうつもりの様子の母に対して、係官は当然子供の健康を調べるつもりだった。親がマグロを食うなら当然子供にも食べさせるはず。係官はそう思ったに違いない。それが、親だと思う。親は食わずとも、子供に食べさせる。これが世間の常識だろう。

 係官の常識が通じない家庭がここにあったのだ。「子供には食べさせていない」という母親に係官は、なにか聞き間違えか、と思っているようだった。

 親の部屋からすき焼きの匂いがしてくるのに、私たちは、母から食べさせられるものは、親とは違うものだった。大抵子供は昼の残りを食べさせられた。母の料理は一体なんだったろう。あまり、子供に朝から食事作ったり、子供のことを考えてくれる人ではなかった。

 昭和20年、生みの母は早くに死んで、母が作った食べ物を覚えていなかった。19歳の姉に料理を作ってもらった。というより、幼少期はオジヤばかり食べていた。昭和20-21年頃、食べるもはまるでなかった。

 そして、22年頃から新しい母の元で暮らし始めた。 名古屋で生活していた母は、よく「焼き飯(チャーハン)」を作って食べさせた。ふーん、これは新しい母の味か、都会の感じだと思った。
 が、油がよくなかったのか。この「焼き飯」を食うたびよく下痢になった。今思うと、使い古した油を使っていたのではないか。だから、焼き飯のときは、胃腸の弱い私はこれが嫌いだった。下痢になっても、母には言わなかったし、母も子供の腹具合には関心をもたなかった。何か文句言っても、「食いたくなければ、食うな!」といわれるのが目に見えていたから黙っていた。食うものの選択の余地はなかったから、食わざるをえなかった。
 
 駅の企画で「(三重県)桑名の海」へ母と子供つれで参加したときは、船で沖に出て海の中州でハマグリをたくさん掘った。子どもの私は、海に連れて行ってもらって楽しかった。思い出としては、残っている。しかし、ハマグリのことを忘れていていた。

 翌日の夕方庭を見ると、取ったハマグリの殻が庭に放り出されていた。母と父が二人で食べたとわかった。子供にはハマグリを食わせてもらえなかったことに気づいた。うちはこうだから、余所も親と子供は別に食事をしているものと思っていた。

 保健所の係官は、あきれた親だと思ったか、あるいは、別に感慨もなく帰ったのか、知る由もないが、我が家の家庭環境はそんな親子関係で育っていた。
 
 この家庭環境は、子供の心の健康にはよくなかった。
 まったく、人災にさいなまれているのだった。貧しいだけなら、親も子も同じ家族として、貧しさに向かいあえる、耐えられるもの。しかし、貧しさを子供にだけ押し付ける姿勢の親には耐えがたい気持ちであった。

 後妻とその妹も同居しているのは不思議な家庭だったが、母の妹Hさんは母に代わって夜のうちに米を洗ってお釜に入れていた。これなら白米のご飯が炊けるはず。ところが、朝になると麦ご飯だった。

 つまり、麦は別にといで置おいて、朝になると、炊く前に麦を米の上において炊き、子供たちに麦の部分を与えて、自分たちは白米を食うのだった。
 「麦食ったから子供は元気に育った」と言ってくれる人もいるが、冗談じゃない。差別された屈辱の何物でもない。
 これが親の所業だろうか。シンデレラや白雪姫のまま親を見るとなるほどと思った。

 マグロを子供に食べさせないのは、母の当然の行動だった。
 保険所の係官は我が家を出て次のマグロ購入者の家を訪ねて行った。特異の我が家のことは覚えているだろうか。まあ、次の家に行く前には忘れてしまうだろう。

 私には心の中の「刺トゲ」として、いつまでも刺さっている。
 これだけ、子供を犠牲にして生きられる親もめずらしい、と思う次第だ。
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復員兵が帰ってきた 昭20年秋  文化新進会 戦後中津川市に新風  市内の企業野球チームが盛んだった 紙芝居おじさん 神主が副業  保古沼でスケート カケ将棋に負けた平八先生  第五福竜丸のマグロを食べた家 本町1丁目夕日シリーズ

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参考資料 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-atmic.htm
 1954年3月1日未明、焼津のマグロはえ縄漁船「第五福竜丸」は、太平洋ビキニ環礁でアメリカの水爆実験「ブラボー」(広島型原爆の1000倍の威力)の“死の灰”を浴びて被災、23人の乗組員全員が急性放射能症にかかり、無線長の久保山愛吉さん(40歳)は「原爆被害者はわたしを最後にしてほしい」と言い残して亡くなりました。
 この3・1ビキニ事件は、日本国民に広島、長崎の惨禍を想起させ、全国に原水爆禁止の声がまきおこりました。3千数百万の原水爆禁止署名が集められ、翌55年に第1回原水爆禁止世界大会(55年8月)が開かれ、同年9月には原水爆禁止日本協議会が結成されました。
 いらい44年間、日本の原水爆禁止運動は、核戦争阻止、核兵器廃絶、被爆者援護・連帯の3つの基本目標を一貫してかかげ、この運動を日本中に、さらに世界にひろげ、前進させてきました。そして、いま核兵器廃絶は世界の人々の共通の願いとなってひろがっています。
(核兵器のない21世紀を 98年3・1ビキニデー 編集・発行 原水爆禁止日本協議会より抜粋)

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 保険所の係官は我が家を出て次のマグロ購入者の家を訪ねて行った。特異の我が家のことは覚えているだろうか。まあ、次の家に行く前には忘れてしまうだろう。

 私には心の中の「刺トゲ」として、いつまでも刺さっている。これだけ、子供を犠牲にして生きられる親もめずらしい、と思う次第だ。

投稿: 後妻とその妹 | 2011年3月 6日 (日) 22時40分

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