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2007年3月14日 (水)

中津川市によく火事があった頃

Logo36供の頃は、火事のサイレンが鳴ると、夜中でも飛び出して見に行った。

 中学2年(昭和28年)の6月27日午前2時サイレンが鳴った。6回鳴った。熟睡していたが、飛び起きた。ウチの愛犬エスは、サイレンに合わせて遠吠えをした。一つの芸だった。
 火事はサイレンの鳴り方が決まっていた。ウーーーー、ウーーーー・・・本町の警察の裏にある戦時中から同じ塔、火の見やぐらの上から、サイレンは聞こえた。大抵大人は目が覚めても、明日の仕事とか、ウチの方に来るか、それを確かめてまた寝てしまう。

 本町の通りに出て空を見上げると、駅の方が炎で空が明るくなって見えた。遠く駒場から歩いてきて本町を通って火事を見に行く、そんな人が何人かいた。物好きなんだろうが、本町から私も火事を見に寝間着のまま炎の方へと人々の動きに従って流れていった。

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 その時の火事は栄町の旭パンのあたりだった。
 午前2時といえば深夜も深夜、それにもかかわらず多くの人々が火事を見に起き出して集まっていた。見物人の群れは、一番見やすいJR中津川駅前公園の東端に集まっていた。

明治30年代、中央線鉄道敷設の時、本来まっすぐ落合から美濃坂本、恵那(大井)をつなぐと、中村あたりを列車は通るはずだったが、その辺の田んぼをつぶすのを住民が猛反対したので、規定路線からだいぶカーブした場所に中津川駅を作った。それが現在の駅である。

今の駅前は低地で、駅に適していなかったから、津島神社あたりから土を運んだらしい。そんな工事を町の人がやったのかな、と思うと感慨深い。中村に線路引いて、駅を作ったら、労力は相当すくなかったはずだ。その埋め立てた造成地が、今の駅前広場と中津川駅となっている。だから、周辺より小高くなっており、駅広場の下にある栄町はよく見える。

 栄町は旭パンが火元で12戸も焼けて、近来にない大火災だった。鎮火までにかなり時間はかかっていた。消防車の水のかけ方が、素人目から見ても下手。火元に水が届いていない。見ていて歯痒い。

 寝間着のまま見ていたら、この夜中、山中の中津では、7月に近いといっても体が冷えてきた。深夜といえど、大人はたいていみんな着替えてきていた。私のように寝間着のまま出てくる人はいない。
 12軒燃える火災を1時間以上は見ていて、やっとその愚かさに気づいた。鎮火されそうになって、炎も見えなくなったから、帰ることにした。近所の高校生(成瀬)聖ちゃんも駅前公園に来ていた。私に気付いて、ニッとして笑ったようだが、言葉は交わさなかった。

 行きは寝間着のまま夢中で火事の方へと歩いたが、ひっそりした深夜の商店街を一人帰るのは異様に恐いものだった。火事ではない町は、ひっそりしている。夜中の3時過ぎ一人歩くのは初めての経験だった。追いはぎに遭うかと心配したが、寝間着姿の中学生を襲っても金目のものがあるはずないじゃないか、と一人笑ってしまった。

 翌日夕方、市役所(当時の)前の英語塾へ行くには、まだ時間があったので、栄町の火事現場へ見に行った。

 検証好きな私は、全体でどれだけ燃えたのか、歩数を計ってみた。中学2年生の足で68歩だった。五十メートルくらいと考えればいいのか。中津では近来ない大火災といえる。

 燃えた跡地には。独特の臭いがたちこめていた。キョロキョロと特に同級生の家の旭パン工場跡を見た。全焼ですべて燃えてしまっていた。パン屋創業から三、四年、お客さんもついて、順調に経営していた。

時代が、米だけの食生活から、時代が変わる。子供がパンを食べたがるようになっていた。新興パン屋だが、子供心にも、これから発展するといいう印象があった。

 旭パンのM君、たのしい少年だった。色白で瓜ざね顔の細身だった。二年上の姉さんは生徒会で活躍していて弟より目立ち、しっかり者との印象だった。
 10円硬貨が初めて発行された年、M君はいち早く、キラキラ光る10円銅貨を数枚持ってきて教室で見せていた。金回りのいい家だなとの印象をもった。

 中学を卒業しても、彼は高校へは行かなかった。火事が原因だろうと推測はできた。四月、五月になって、M君は、納豆と豆腐の曳売りを市内で始めた。私は高校へ行く道すがら彼に出会うことが案外多かった。知っている人と出会うと、彼は顔を真っ赤にして隠れようとしていた。彼の肌が白かったから赤くなるのがよくわかった。特にはっきり会いたくないという感じが見えた。

 混乱した時代背景があるのかわからないが、同時期に中津高校は何度も火事になった。放火だと言われていた。火事になるたび、夜中飛び出して駅前の公園から高校が燃えるのを見た。

復員兵が帰ってきた 昭20年秋  文化新進会 戦後中津川市に新風  市内の企業野球チームが盛んだった 紙芝居おじさん 神主が副業  保古沼でスケート カケ将棋に負けた平八先生  第五福竜丸のマグロを食べた家  中津に火事がよくあった頃  本町1丁目夕日シリーズ

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コメント

昭和28年頃のこと、木曾の山並が切れたところが、中津川の町だった。夏でも夜は涼しいところだった。

投稿: nozawa22 | 2010年6月11日 (金) 17時12分

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