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2007年2月 6日 (火)

市内の企業野球チームが盛んだった

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三菱電機(扇風機専門だった中津川工場)の投手吉田さんはモーションが大きく独特のスタイル で、球は風を切ってシュヒューとすごかった。

 野球というものを教えてくれたのは、近藤家具(本町)の※アキちゃんだった。たった数歳しか違わないなのに、ボールの投げ方、バットの振り方、よく面倒を見てくれた。

 最初は野球といっても布切れのボールと木切れのバットが道具であった。この布切れボールは、芯に木を入れて糸で巻き、次に布で巻き作っていた。軟球が普及するまで、自分たちで作ったボールとバットで遊んでいた。当時スポーツ店では革製ではなく、布製のグローブが多く売られていた。

 蒸気機関車が中央線に走っていた頃、桃山町に機関区の石炭置広場があった。本当は子供が入り込んで遊ぶ場所ではなかったが、子供はお構いなく入り込んでいた。子供が野球するのに丁度いい場所だった。広さから言ってセカンドが作れないから、一塁の次が三塁の三角ベースだった。打球が石炭の山を越えればホームランになった。

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 小学6年が一番上で、小2や小3あたりのペイペイは球拾いをやらされたが、それでもたまには打席に立たせてくれた。時にはボールを投げさせて競わせた。

 「ツネはコントロールがいい」とか、「イサオは足が早い」と
 小学生が小学生を上手におだてながら教えてくれた。
 そうやって遊びの伝承を受けていた。親切に野球を教えてくれたアキちゃんは、中3卒業した春、落合へ家具配達の途中に交通事故で早逝した。

 中津市内の大手の企業はチームを持っていて、大人の野球も盛んだった。市内で対抗戦をやっていた。当時、娯楽の少ない時代、みんな見に行ったものだ。
①三菱電機中津川工場
②王子製紙中津川工場
③国鉄中津川機関区
④北恵那那電車
⑤中央板紙本社
⑥近江絹糸中津川工場
 この中でも強かったのは三菱の野球部、まるで中津の巨人軍のようなチームだった。これに対抗するのが王子(本州)製紙、あるいは(中津川)機関区チーム。あの頃は北恵那鉄道チームもいた。近江絹糸チームも参加していた。中央板紙も弱小チームで参加していたと思う。

 試合場所として、大抵は市内の高台にある二中のグランドを使っていた。あそこが、一番広いグランドを持っていた。見物に集まるにも都合がよかった。日曜日、昼飯を終わると、六年生の兄貴に連れられて見に行った。見物人は、かなり一塁線に近い場所まで寄って見ていた。娯楽の少ない頃、それは今で言えば、テレビで、プロ野球を見ている気分であった。

 三菱のピッチャーは近江屋(本町)の背の高い人(吉田さん)、モーションが大きく足をはね上げて、独特のスタイルで投げていた。
 ヒューッ・・・・バシッ
 その投球は、軟球だったせいもあるが、風を切る音がして、キャッチャーのミットにバシッと入った。吉田ピッチャーは多くの三振を取って三菱の勝利に貢献していた。

 その腕にほれ込み、読売巨人軍からスカウトされたという噂だった。それはいかに凄腕の投手の証明みたいなものだった。しばらくすると、「二軍暮らしになるから行かなかった」と、町中に広まっていた。子どもの私にも聞こえてきた。

 機関区のチームも特徴があった。
 ピッチャー(栗本さん)は肌の浅黒い人で、剛速球を投げていた。ショート(中村さん)は小柄で陽気な人で、すばしっこいのが印象的だった。あまり野球をやっている姿を見たことはないが、義兄が機関区の監督でベンチに座っていた。

今は消えてしまった中津川発→付知の電車、北恵那電車の会社がまだ元気だったころ。この監督が水谷さんだった。昭和町のウチの祖父の家の前の人だったから、ヘーえと思って見ていた。

本州製紙と名称を変える前、王子製紙は野球部は、三菱の対抗馬として、いい試合を見せてくれた。

中津の野球を盛り上げてくれたのは、名物アンパイヤー(遊佐さん)だ。当時は審判というよりアンパイヤーということが多かった。戦時中はストライクを「一本」、ボールを「ダメ」と言っていた反動か、戦争に負けて進駐軍が来て以来、英語を使うことが多かった。英語コンプレックス故に、野球では英語が妙に多かったように思う。

 遊佐さんの審判は、大げさな身振りで「ストライーク!」と言った。「言った」というより「叫んだ」というほうがよいかもしれない。セーフ、アウトのジェスチャーも大げさだった。マスクやプロテクターを小道具にして劇をやっているようだった。今でいうなら、交通整理に踊るようにやる人に似ていたなぁ。
 そのアンパイヤーは岐阜タイムス(倉前町)支局の遊佐さんだった。この人によって、中津の野球に華やいだ雰囲気がもたらされていた。

 「オール中津川選抜チーム」がノンプロチーム名鉄(名古屋鉄道)と戦ったことがある。名鉄は後に北恵那鉄道を買収した。
 中津川市の6企業チームから優秀な選手だけを選んで作った「オール中津川選抜チーム」対「ノンプロチーム名鉄」だったと思う。見物の人が、かなり集まっていた。

 いかに優秀な選手を集めた「オール中津川選抜チーム」であっても、しょせん田舎チームに過ぎなかった。「ノンプロチーム名鉄」との対抗戦で実力の差を歴然と見せつけられた。

Kawakami_aota 川上哲治と青田昇 あの時も二中のグランドでやったのだが、中津選抜チームが力一杯打っても打球は全然飛ばない。ピッチャーの投球に押されているのだろう。三振と凡打のヤマだった。

名鉄の選手は軽く打っているのに、中津選抜チームの投手が速球を投げているのに、打球はボンボン柵越え、グランド縁の桜の木を越えてグランドの外に飛んだ。打球が外へ消え、周りの田んぼに落ちて行った。技量は、大人と子供ほどの違いがあった。本場の野球はすごいと思った。

 これでもノンプロの選手、プロではない。これから類推してプロはすごいだろうな、と納得してしまった。その年、川上の赤バット、大下の青バットが活躍し、年間ホームラン25本でホームラン王だった。そんな時代だった。 00008_51

復員兵が帰ってきた 昭20年秋  文化新進会 戦後中津川市に新風  市内の企業野球チームが盛んだった 紙芝居おじさん 神主が副業  保古沼でスケート カケ将棋に負けた平八先生  第五福竜丸のマグロを食べた家 本町1丁目夕日シリーズ

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本町を一中の学区にした恩人近藤昭彦
昭和24,5年頃、本町は一中の学区であると決められたが、アキちゃん(※近藤昭彦)は一中には行かないとガンコに突っ張って、坂本中学へ一年行き通した。市が折れて、一中は倉前町からで本町は二中ということになった。「オレがんばったから、オマエたち二中へ行けるんだ」とアキちゃんはよく言っていた。

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コメント

三菱電機(扇風機専門だった中津川工場)の投手吉田さんはモーションが大きく独特のスタイルから投げ下ろす球は、風きる音がシュヒューと、すごかった。

投稿: | 2010年10月14日 (木) 10時58分

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