保古沼でスケート
昭和26年冬の話である。あのころの冬は、寒かった。特に中津は山と山の間のなべ底みたいな町だったので、風の寒さはひとしおであった。
次兄は、向えの姉さんシゲちゃんを誘ってスケートに出かけた。そのお供で保古沼へ行ったことがある。私は小学6年、次兄は10歳年上である。
シゲちゃんは、本町通りに面した部屋でミシンを踏んで洋服を作っていた。(今内木商店の場所)ウチの精麦会社で働いている男衆は、昼休みや休憩時間に、なんか口実つくってはシゲちゃんチの玄関先に腰掛けてしゃべっていた。常連は二三人いた。西尾、高木、ウチの兄貴も。特に高木さんがいることが多く、その後、シゲちゃんはこの高木さんと結婚した。
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兄貴が革のフィギィアを買ったのも、保古沼へ行ったのも、その辺の事情と関係があったのかもしれない。シゲちゃんは、兄貴と二人きりは心配で、ワンクッション置きたかったのだろう。しかし、兄貴はライバルになる連れは困るし、シゲちゃんを安心させるために誰かということで、小学6年だった私をダシに使われたのだろう。私は、そんなこと何も考えなかったが。
保古沼の氷は、5センチ以上は滑走可となる。室内スケート場はどこにもない時代、リンクの中を滑走する人も、リンクの周りで見物する人も大勢いた。娯楽施設がないから、保古沼の湖上は人、人、人。
一周500mのリンクをスイースイーとすべる人の群れの中に、転校生の菅井君がいた。子供は大抵ゲタスケートだったが、彼は革靴のロングで滑っていた。「都会の子」という感じだった。わりと小柄な男の子だったが、左手を背中で置き右手を振り、前傾姿勢で滑っていた。私を見つけると、ニッと笑って通り過ぎた。同じクラスになることもなく、彼は高校へ入る前に消えるようにいなくなった。
兄貴はシゲちゃんにスケート靴を履かせて、両手を握って滑らせていた。始めてのシゲちゃんはあぶなっかしい歩みで、兄貴にしがみつくようによく倒れた。畳の上の練習成果があってか、兄貴はバックとターンをして見せてくれた。私にはシゲちゃんが疲れたころ、一回だけ靴を貸してくれたが、20分も経つと交代させられた。
寒い氷上ですることもないから、4時にもならないうちに帰りたくなった。兄貴たち二人はノロノロしているから、私は歩き始めた。北恵那鉄道のトラック(乗合バスの代用)が待っていた。バスで帰る兄たちに、「先に帰る」というと、兄貴は「いいよ」と、私のことなど眼中にない感じだった。
トラックの荷台に人を満載して、根ノ上高原から雪の坂道を大揺れで降りてきた。ドラックだから、外気の寒さを感じながら乗っていた。今でも坂は変らないが、当時は舗装もされていない。
途中、手賀野でトラックが止まり、人が降りた。降りるとき運転手が料金を集めていた。このトラックは無料ではなかったことに気づいた。確かたった10円だと思ったが、お金なんかもっていないことに私は焦った。
スケートに行くといっても、カネは兄貴に任せていたから、一円も持たずについてきてしまった。トラックに乗っている周りは知らない人ばかり。
←こんなにボロではないが、古い木の荷台だった。 国道と八幡町ハチマンチョウの角で停車した。
(本町に近いのはここだ)私は思った。運転手が運転席から降りてお金を乗客から集め始めた。その反対側、トラックの後ろ側で運転手の姿がちょうど見えなくなった場所で、荷台から飛び降りた。走った。冬の日暮れは早い。子供に一人、闇にまぎれるのは容易だったが、とにかく走った。西生寺前から横町に出て、本町へ来て、家に着く。
その後このことは誰にも話していない。悪かったかな。今も、ちょっと心のどこかで気に病んでいる。
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