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2007年2月 3日 (土)

復員兵が帰ってきた 昭20年秋 

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 昭和二十年の秋だっだろうか。その頃あちこちの家に戦地から父や兄が帰ってきた。 

Kouhideo68a正雄さん、高英男のイメージだった。 私が外で遊んでいると、裏木戸の板塀越しに、背嚢を背負った背の高い復員兵がわが家(宮町)の様子をうかがっていた。なぜ復員兵がウチに来たのか、それも裏口から入ろうとしているのか、五歳の私は怪しいと思った。

 家にいた姉はその復員兵を家の中へ入れて、懐かしそうに話をしていた。その頃、母を亡くしたわが家を切り盛りしていたのは、十九歳の姉だった。

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 裏から入った復員兵は、姉と二人で長く話をしていた。その復員兵はずっと直立不動の姿勢を保っていた。時々姉は涙ぐんでいるようにも見えた。五歳の私には、意味が分からないから、それが気になってしかたなかった。朝9時頃来て、昼はとうに過ぎていた。話しているのは一時間やニ時間ではない。

 私は心配だったので、時々家の外にいて塀の隙間から覗いていた。この復員兵が、何か姉に危害を加えやしないか、姉に手でも出したら、棒でも持って飛び出そうやろうと、思っていた。何べん見に行っても、姉は縁側に座っているし、その復員兵は立ったまま話をしていた。まるで上官の前で何か報告でもしているような姿だった。

 復員兵は、母の姉の子、従兄の正雄さんだった。
 出征する前には、正雄さんはわが家に親しく出入りしていて、長兄と同じ歳で姉とも親しかった。正雄さんは二年間北支へ出征していた。私の三歳から五歳までいなかったから、私の記憶から消えているのも無理からぬことだった。
 正雄さんの出征中、姉は戦地に何度か慰問袋や手紙を送ってやっていた。女ッ気のない外地で、女性からの慰問袋が届くのは、戦地では特に嬉しいものだったらしい。戦友にずいぶん冷やかされた、と後に語っていた。そんなわけで、まあお互いに憎からず思っていたのではないか、と推測している。単に従兄妹以上の感情があっただろう。

 正雄さんは、幼くして実母を亡くして、肉親として慕える人はその妹であるウチの母であった。ウチの母も正雄さんを不憫な子と思ってか、彼をよくうちに泊めてやっていた。長兄と同じ歳でもあり、姉は妹の存在でもあった。正雄さんはわが家では兄弟といってもよかった。姉も親を失った人の共通するものを強く感じるようになっただろう。正雄さんは親なし子のトラウマが、大人になっても体の中に強く残っていた。

 正雄さんは落合の隣、瀬戸に実家があったが、戦地から帰還する途中、中津川に途中下車したのだった。叔母である私の母に会って挨拶してから実家に帰るつもりでいた。ところが、昭和十八年に彼が出征して二年間、わが家も激変していた。

 正雄さんはカレーが大好きだった。
 わが家ではライスカレーと呼んでいた。
「きょうは洋食だ」と、それが出ると大喜びだった。

 当時は食べ盛りで、正雄さんはよく食べた。子供六人もいると、一人くらい増えても全体の量は同じようなものかもしれない。勝手知ったる他人の家ではないが、わが家を自分の家のようにして家族同様に食事をしていた、と私は思っていた。
 しかし、後年、聞くと、「もっと食べたかったが、他人の家だから遠慮していた。まだひもじかった」と語っていた。見えないところで気を使っていたのだ。これは、幸せにすごした人間には理解しにくいところである。

 戦地から帰って家に直行しても、迎える人もいないから、まず中津の叔母の顔を見てと思って、わが家に寄ったわけだ。ところが、出征時には元気に送ってくれた私の母が亡くなっていた。考えてもいなかっただけに、ショックだったことだろう。実母のいない従兄には、頼るべき人をまた失ったことになる。それを始めて聞かされて、大きな痛手だっただろう。

 19歳の姉も母を失って正雄さんの心情をよく理解できただろう。お互いに共感を持ちえたと思う。

 昭和18年、出征列車が中央線から山陽線下関経由して(朝鮮)釜山に着くまで、二等兵の正雄さんは歌がうまいと言われて、全員が歌を覚えるまで、何回も歌わされた。テープレコーダーがない時代、歌を繰り返すのは人間しかいない。下手な上官は覚えるのが遅くて大変だった。正雄さんは、戦地でも、他の兵隊が戦地で偵察巡回に行ってるとき、部隊に残って兵を慰めるために、歌を歌っていたとか。

Rappa9208  正男さんは、起床ラッパ、就寝ラッパを吹くのが仕事で「オレは、栄養食として毎朝タマゴが一つ付いた」というのが自慢だった。
「新兵さんはツライのねー...、また寝て泣くのよねー...」ラッパのリズムでやってみせてくれた。あのラッパ、小学校の2年生の教室(和裁室)の押入れにあったが、誰が吹いても音がでなかった。相当の肺活量がないと音が出るもではない。

 北支の寒さは厳しくて、小便が出る先、出る先、凍ってしまうから金槌をもって行って割らないと小便ができない、と時々、冗談とも本当ともわからない話をしていた。子供心にまた、また、冗談、ウソ、と思っていたが、そういう話を面白くしてくれた。その中、厳しい戦地の生活は察することはできた。

 復員後、本気で歌手として身を立てるつもりにだったようだ。
 まず、旭座で行われるアマチャ喉自慢コンクールに出て当選して、それを足がかりにすると自信満々だった。

 「勘太郎月夜」を我が家で練習していた。白熱電球をマイクに見立て顔と口を近づけ、両手をつなぐシナを作って、身振りをつけ熱唱して聞かせていた。そのころよく歌っていたのは「誰か故郷を想わざる」だった。Title2 憩いの歌集

 入れ込みすぎて、力を出し切れなくて、喉自慢コンクールでは惜しくも、当選はできなかったが、東京に出てテイチク専属歌手のオーデションに受かった。ところが、簡単に舞台の上で歌う仕事があるわけない。地方の酒場などまわって日銭を稼いでいた時期もあった。そんなことは、中津の身内には一言も言わなかったから、知らなかったが、晩年に聞いた。

Syouzitaro09_  同じ世代の歌手で出世頭は、直立不動の歌手東海林太郎のようだ。そのころは、多少のフリはあっただろうが、直立不動の歌い方に近いスタイルが主流だった。

売れない歌手は、酒場を回るのが、歌手の普通の生活だった。盛り場で酒場回りをしていたその頃は、縄張りに入ったとかでよくもめたらしいく、正雄さんはヤクザと喧嘩も絶えなかった。軍隊で鍛えた腕ップシは強かったので喧嘩には自信があった。しかし、さすが七、八人相手に立ち回りしたときは、殺されるかと思った、と従兄弟で集まったときに話していた。

 数年前、正雄さんは七十代のなかば、頑丈な体躯も病魔に勝てず亡くなった。 00008_30 

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