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2007年2月 7日 (水)

吉村公三郎映画を見にいこう

Index学友の吉村秀實さんから、「吉村公三郎7回忌記念」の映画週間が池袋・新文芸坐で行われているとメールをもらい、彼の親父さんの作風を見直してみたいと思った。吉村監督、89歳で亡くなった。

人生坐は学生時代に見に行ったが、田舎の映画館と変わらないボロ映画館だった。人生坐とは違うが、今の新文芸坐、かなりきれいな様子だ。

特集:七回忌追悼 名匠・吉村公三郎の世界-吉村作品の中の名女優たち

<第一部・大映製作>『偽れる盛装』『夜の河』(2/3)『婚期』『越前竹人形』(2/4)『女の勲章』『源氏物語』(2/5)『西陣の姉妹』『貴族の階段』(2/6)『千羽鶴』『その夜は忘れない』(2/7)『四十八歳の抵抗』『電話は夕方に鳴る』(2/8)『一粒の麦』『地上』(2/9)『夜の蝶』『夜の素顔』(2/10)<第二部・その他製作>『暖流<総集編>』『安城家の舞踏会』(2/11)『夜明け前』『足摺岬』(2/12)『誘惑』『わが生涯のかゞやける日』(2/13)『嫉妬』『森の石松』(2/14)『銀座の女』『女の坂』(2/15)『こころの山脈』『らんるの旗』(2/16)※2/11はトークショーあり。

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1974年(昭和49年)、ルパング島から30年ぶりに帰還した小野田元少尉(52歳)が、好きな女性のタイプはと問われて、「水戸光子みたいなひと」と答えた。水戸光子の出た「暖流」は、監督が吉村公三郎と紹介、と展開するホームページがある。

 小野田さんらが青春時代に評判を呼んだのが映画「暖流」(1939)で、人気を二分したのが、病院長の令嬢役の高峰三枝子と看護婦役の水戸光子であった。「暖流」は満を持した吉村公三郎監督作品第一作。
 「暖流」は朝日新聞に連載された岸田国士の小説を映画化したもので、私立病院再建に乗り込んでくる青年実業家日疋祐三(佐分利 信)をめぐって、病院の令嬢志摩啓子と看護婦石渡ぎんの愛の葛藤を描いたものである。
 

「夜の蝶」という言葉がホステスの異称になったのは、吉村公三郎監督の映画以後らしい。映画から言葉ができた例だと、あるコメントに載っていた。

Img_zushi親父さんは、息子に対して、かなりきびしく独立独歩を勧める親のようだった。エピソードはいろいろあるが、タバコを吸い始めたら、「ちとやそっとの気持ちで吸うな。一生覚悟して吸え」と、軽い節操で止めたりするな、と言い渡したそうだ。息子の秀實氏は、他のクラスメートが禁煙するのを横目にハードスモーカーを続けている。

Images_18  吉村公三郎映画は、高校卒業するまで、田舎では全然見ていなかった。「夜の河」(山本富士子主演)のポスターが、ウチの隣りの家に貼ってあったが、その絵はエロッチクで、子供の見る映画ではないと言われていた。

結局見たのは「夜明け前」だけ。学校から見に行った覚えがある。「夜明け前」の舞台馬籠は隣町でロケもここでやったから、学校の先生方も生徒に見せておく必要があったのだろうと思う。

00015_3Kouchi03 学生時代、ある日教室で「きょうは内桃子(女優)がウチに来ている」と日常会話でいう彼だった。日常に有名人がまわりにいる生活は、ちょっと異色であった。

「越前竹人形」は、水上勉の原作で、私の記憶では、主演の若尾文子が
妊娠の身で荷車で揺られて行くうち、道端の百合の花を見て吐き気を催すシーンがありますが、これは原作にはなく、亡父のオリジナルです。百合の花は香りがきつく・・・と亡父が言っていました。
11日(日)午後は、新藤兼人さんのトークショウがあるそうですが、とても入れ切れないのではないか、と思っています。 以上、ご報告まで。

池袋・新文芸坐での7回忌記念「吉村公三郎特集」(2月3日より2週間)を折角紹介してくれたから、この間に行けたら、行ってみたいものだと思う。なかなか、きっかけがつかめないから、ふんぎりのいい時、飛び込まないとチャンスを失う。 

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吉村公三郎映画を見にいこう  吉村秀実氏と映画監督の対談  吉村公三郎映画 新文芸坐

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吉村公三郎 プロフィール 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日-2000年11月7日)、昭和期の映画監督。 滋賀県大津市に、新聞記者で後に広島市長を勤めた吉村平造の息子として生まれる。東京の私立日本中学(現・日本学園高校)卒業後、1929年松竹蒲田撮影所に助手見習いとして入社した。入社以来、島津保次郎の下で助監督として活躍する。1934年、当時10歳の高峰秀子が主役のナンセンス短編喜劇『ぬき足さし足・非常時商売』で監督デビューするが、評価は低かった。

1939年、『女こそ家を守れ』で本格的に監督デビューをし、東宝に移った島津保次郎が撮る予定だった『暖流』を撮り、好評を博した。

南方戦線より復員後の1947年、没落家族を描いて新しい社会の到来を印象付けた『安城家の舞踏会』を撮り、好評を博し、キネマ旬報ベストテン1位に輝く。以後、この作品の脚本を書いた新藤兼人とのコンビで多くの名作を制作することとなる。また、1950年には、その新藤兼人と「近代映画協会」を設立し、命運を共にすることとなった。

以後、『偽れる盛装』で、毎日映画コンクール監督賞を受賞するなど、精力的に作品を発表し、男女の心理描写では他者の追随を許さない名監督の地位を確立した。晩年は体調を崩し、映画の製作から遠ざかったのは惜しまれる。1976年、紫綬褒章、1982年、勲四等旭日小綬章を受章。

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コメント

野沢さん!池袋・新文芸坐での亡父の映画の宣伝までしていただき、感謝にたえません。11日(日)は、新藤兼人監督(94歳)のトークショウがあると聞き、新文芸坐に行って来ました。午前9時45分から「暖流」と「安城家の舞踏会」の2本が上映されていましたが、満席で立ち見の人も一杯でした。新藤監督にお会いするのは久し振りでしたが、新藤監督曰く「元気そうで良かった」には参りました。新藤監督のトークショウでの記憶力、話し振りはまさに「化け物」です。今夏にはまた新作を封切るとのこと。野沢さんはじめ早稲田の同窓生たちの皆さん!あと30年、気合を入れて元気で行きましょう!24日(土)湯河原での同窓会を楽しみにしています。

投稿: 吉村秀實 | 2007年2月12日 (月) 22時59分

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