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2007年2月 4日 (日)

文化新進会 戦後中津川市に新風

Logo16 戦後昭和21年、荒廃した社会で最初に文化活動をしたのは、大学生くらいの年配の人たちだった。東京医大の学生だった山田風太郎の「戦中不戦日記」に記録がある。大学の疎開先、長野県辰野町で学生演劇を催したら、町中の人がびっくりするほど集まってきたと書かれている。文化に飢えていた時期だった。岐阜県中津川市でも同じような文化運動があった。「文化」という言葉が新鮮だった。

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昭和二十一年八月の暑い日だった。
 二中の校庭へ行くと、文化新進会の「子供会」がある、と誰かが言っていた。昼休み中家の中でグズグズしていた小1の私はどうしようかと迷っていた。お金も一円必要だったが、それでも新進会の「子供会」への興味が勝って出かけた。

 その年に南小学校の先生になったばかりの人(辻村)がもう多くの子供に囲まれていた。二中の校庭には大きな桜が葉を茂らせていた。その木陰は、緑陰というにふさわしい日陰だった。子供たち二十人くらい集まっていた。
 周りは知らない人ばかりだったけれど、先生の話はおもしろく、夢中になって聞いた。

「○○くんは、お母さんに内緒で子猫を拾ってきて、二階の押入れで飼っていました。○○くんは、自分のご飯を残しては、ネコの○にそっとあげていました」

 つい一年前までの天皇崇拝、戦意高揚の話とはガラツと変わって、今はどんな話でもできるようになった。民主主義とはこんなものか、と感じた。
 もう空襲もない。青空の下、解放感があった。

Nhk01 朝はどこから (岡本敦郎、安西愛子) この歌は、新鮮な気持ちで歌った。終戦の空気にピッタリ合っていた。
 
 新しいものを伝えようと先生は真剣だし、子供たちも食い人るように聞いていた。

 終戦直後、旧体制を支えていた校長クラスの大人たちは、価値観を否定されて自信を失っていた。新しい民主主義にはまるで無力だった。
 その空白を埋めるために、出てきたのが「文化新進会」という組織を結成した若い人たちだ。

 都会の大学、専門学校で学んできた人達に今では考えられないほど期待されたし、彼らに熱意があった。
 二十歳越したばかりの人たちが活躍した。ちょうど十五歳上の長兄(野沢有臣)がこの活動の一員だった。
 今から見ればこの年齢が社会のリーダーになるには若すぎだろうが、しかし、戦後の新しい文化を伝えられるのは彼らしかいなかった。

 (昭和21年)十二月のある夕方、何か文化新進会の催しがあると聞いて、小6の兄と役場(恵比寿町旧庁舎)の二階へ行った。
 他の子たちとぞろぞろと階段を上がって行った。階段は木造の幅広い、南小の講堂にある階段に似ていた。

 ホールに大きクリスマスツリーが飾ってあり、小学1年の私にはまぷしかった。樅の木の緑、白い綿、星の飾り、光る銀紙、すべて初めて見るものだった。キラキラとして別世界の観であった。

 一年前までは灯火管制下で薄暗い夜が続いて,それが今、アメリカ文化、西洋文化が持ち込まれ、急にキラキラ輝いたものに出会った印象だった。
 明るい、底抜けに明るい外国文化の息吹に触れ、都会に行ったことのない子供たちには新鮮な驚きだった。

 誰がどう文化新進会の活動方針を決めたかわからないが、後輩たちのために、図書館を新町、今の「すや」の中に開いた。「すや」の店舗は昔とほとんど変わっていないから、ここに棚があって、と思い出せる。貸出カウンターがあり、壁面に書架が並んでいた。本は千冊近くあったような印象である。

 戦前のよき時代に勉強した「文化新進会」メンバーの彼らは蔵書を持ち寄り、専従の女性がいて貸し出していた。昭和二十一、二年、活字に飢えていた後輩たちには、砂漠に水か、慈雨であったに違いない。

 六年生だった兄は、ここまで来て本を借りた。一年生の私が読める本がなかったのか、私が文章がまだ読めなかったのか、借りた記憶はない。もっぱら兄の腰巾着だった。

 後に火事があって今の商工会議所がある建物の中へ移った。ここへも兄のお供でついて行った。セメント造りの建物はどっしりして空気が重い印象だった。

 大学を卒業して青年たちが学校の先生になり、薬局の跡継ぎに帰って来たり、あるいは研修医として中津に来ていた。
 中津の町では、彼らには戦後の文化をもたらしているという自負もあったと思う。しかし、中には特攻帰りのヒロポン中毒者もいた。せっかく先生になりながら、自ら命を絶つ人もいた。

 わが家(西宮神社の前)は親が不在がちで、二階に若者十数人が集まってきた。そこは、古い制度の崩壊の中、平和回復の無法地帯だった。集まつて来たメンバーは、一年前までは"現人神(あらひとがみ)"と言われた天皇を"テンちゃん"と呼んでいた。

 正月十日市の朝、真夜中まで我が家の二階で盛り上がっていた兄の仲間たち「文化新進会」メンバーは、朝は爆睡中であった。夜中まで騒いでいて寝たのは夜明けである。何かといえば、親が留守勝ちなわが家が新進会メンバーが集まって来ていた。

わが家は恵比寿神社の目の前で、中学生が、十日市の景気づけ太鼓を早朝から叩いていると、「うるさい! ○○、お前の成績を下げるぞ!」
と、若い先生は、神社にいる生徒に名指しで怒鳴っていた。職権乱用もいいところだが、怒鳴った後、太鼓が鳴り止むと、また「文化新進会」メンバーは眠るのだった。

 理系の先生はすごいことをやった。
 わが家の外の電線から中部電力の電気を盗んで、二階の部屋へ引き込んだ。そして電熱器でパンを焼いたり、カルメラをつくるの
も朝飯前だ。脱線したこともやっていた。先生というより、まだ学生だった。
 砂糖を膨らませるカルメラ、電熱板を木の箱の中に差し込んでパンを作る製法をわが家にもたらしたのも、この人達だ。

誰からもらったか、分からなくなったが、兄の友だちで文化新進会メンバーの一人から、中古のマンガをもらった。「マンガの缶詰」と書いてあった。表紙が取れていたが、マンガがぎっしりつまった300ページ以上ある厚い本だった。読み応えがあった。しかし、貸してやった友だちがなくしたといって、文字ばかりの伝記本「ネルソン」イギリスがスペインの無敵艦隊を破った、イギリスの名提督で弁償してくれたが、どうも面白くない本だった。

 この「文化新進会」の人たちの青春は、大人の価値観の崩れ、その戦後の谷間に咲いた青春だったのかな、かなり治外法権だと勘違いしているようだった。

 「文化新進会」の活動した期間は数年だった。昭和23年にはほとんど活動していなかったが、新進会の活動は社会に新風を吹き込んだ点で、中津川市の市史で特筆されるべき社会運動だったと思う。あれから六十数年、彼らはもうすぐ八十代後半の歳になる。(中津川市かわら版より) 全国中津川人へ 

 消去すると、日の目を見なくなりますので、古い便りを紹介します。

件名 : なつかしい便り 日時 : 2000615 15:19    

かわら版にその都度ご投稿いただき、ことに故里の勝手の情景をこまごまと回想描写され懐かしさに加えるに感服を以って、拝読しております。

 メールを差し上げるわけは今回のご投稿が一に係って(一寸大げさかな)「文化新進会」とその子供会つまり「わらべ会」にあることです。

 失礼ですが貴兄は元野澤米屋さんの方でしょうか、そうとすれば、 覚えていらっしゃいますか。赤井芳郎・達郎(すや)、菅井省吾・建吉(東校の上)、青木好夫(台町)、 -----みんな若く、今にして思うとよくもまあ!という想いです。レコードコンサート、文学作品の講読会、宇野千代さんなども來津されました。そして鈴木慎一氏によるバイオリン教室の発足。季節ごとのわらべ会のかずかずのイベントなど、回想すると切がありません。新進会の図書館では竹下姉妹が取り仕切っていました。のぞいては駄弁ったものです。もう一つ、「学生文化会」があり新進会と拮抗したような形になっていました。小生は新進会、兄は学生文化会でした。わらべ会の小学生も今では還暦に達しようとしています、旭座を借りて菅井建吉脚本の「蜜蜂マーヤの冒険」「月の兎」を上演した時の可愛く無邪気なスター(?)たちも-----。

 貴兄のご投稿を菅井省吾さんに FAXしておきました。
 思いつくままに長たらしいメールになりました。
 しんぼうして読んどくれんされたかえも、すまんこっちゃったなえ。
  間 誠三さんからメールを頂きました。

15歳お年上の長兄の方は、旧制恵中の先輩かなと思ったりしています。 申し遅れましたが、小生中津を昭和29年に離れ、以来横浜に在住しています。生家は今の勝宋、その後宮町、戦後は上金(高校の下のグランドの東隅の一軒屋)と移りました。間 誠三

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復員兵が帰ってきた 昭20年秋  文化新進会 戦後中津川市に新風  市内の企業野球チームが盛んだった 紙芝居おじさん 神主が副業  保古沼でスケート カケ将棋に負けた平八先生  第五福竜丸のマグロを食べた家 本町1丁目夕日シリーズ  戦後中津川のリーダー文化新進会

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このブログ或いは集まりとは縁の全くない者で、突然の記入をお許しください。用件は、このブログに記載されている間誠三さんという方にコンタクトいたしたく、もし可能であればメールアドレス、あるいはコンタクト先を教えていただければありがたく存じます。私の亡き母親は中津川出身で、実家は間家です。その弟達が、間得之さんと間誠三さんで、私が子供のころにお会いする機会を得ていますす。図らずも検索で間誠三んさんの存在を知りました。
私のアドレスは、miyazaki7224@jcom.home.ne.jpです。東京在住です。

投稿: 宮崎高嶺 | 2012年3月23日 (金) 15時33分

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