« 硫黄島玉砕 昭和19年(渡辺謙) | トップページ | 亀田興毅 対戦相手ランダエタ »

2006年12月11日 (月)

終戦 荒廃した国土 忘れるな

00005_8 大学生であったこの人は、神戸から熊本のお爺さん家に行くため、原爆の落ちる8月6日、列車に乗った。召集されて広島へ行く40代の人と同席になった。桃やぶどうを見送りの人にもらったと振舞ってくれた。

空襲で止まったりして遅れたが、7時に列車は広島に着いた。「集合時間に間に合った」と、その人は広島に降りた。一時間後、8時15分原爆投下と共に消えてしまう運命とは知らず。そんな偶然が書いてある。http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/19450815_2.htm

★読み始めたら、ここで木戸銭クリックしてね!
   ↓   ↓

人気blogランキングへ  nozawa22ブログ順位がわかる 

Yakeato2 戦争のさ中、これだけの歴史の一場面、その場で知りえたことは、稀有な体験である。本日は、人の文章をそのまま引用させてもらう。

終戦は、既に遠くなって思い出の彼方に行ってしまっている。それを少しでも残そうと努力している人がいる。そのページを偶然見つけたので紹介したい。

の時は大学2年(工学部だったので、徴兵検査は済んでましたが、卒業まで猶予されてました。)の夏休みでした。神戸に住んでましたが、祖父母のいる熊本に墓参りに帰りました。

8月5日の夜友人と2人で神戸を発ちました。岡山に着くと空襲警報で汽車は止まってしまいました。
そこへ明朝8時広島の連隊に入隊するのだと言う応召兵(40近い)の方が私どもの席に乗ってこられました。見送りの人から貰ったので食べてくださいと美味しい桃や葡萄を下さいました。

車はやがて動き出し、広島には7時に着きました。その方は間に合いましたと喜んで降りて行かれました。カンカン照りで暑い朝の広島駅のプラットホームは綺麗に打ち水され、通勤のサラリーマンや学生達が忙しく構内を行き来して活気に溢れていました。

S_photo115858(米軍提供 長崎投下の原子爆http://www.janjan.jp/world/0608/0608219831/1.php

島を出てすぐ私達はブラインドを降ろし眠りました。暫らくするとガーンと大きな衝撃を感じ目が覚めました。ブラインドを開けて見ると、汽車は宮島と岩国の間付近を走っているようでしたが、宮島の向こうの空に大きな雲がむくむく湧きあがっていました。畠ではお鍬をかついだ百姓さんたちが走っていました。あれはひょっとして呉軍港の火薬庫でも爆発したのと違うかな、などと話していました。その日の夜熊本に着き、祖父の家に落ち着きました。その後2,3日して真っ赤な小便が出たのには驚きました。

Photo115859_1 広島に投下 リトルボーイ(AP提供)
当時、空襲警報は福岡を基準に発令されるので、沖縄からの米空軍機は熊本では警報無しでしょっちゅう飛来してました。或る日の空襲は祖父の家の有る郊外の部落を狙って来ました。田圃の上10米位を水平に機銃を撃ちながら飛んできます。我々は慌てて濠に避難しましたが、だんだん酷くなるので合間を見て横の崖下の窪みに移りました。前は竹薮で敵から見えません。


W122,3キロ離れた市内を見ると矢張り数機の敵機が低空を飛びながら機銃掃射しています。うち1機がこちらに向かってきました。目の前の竹薮をザーっといわせて急上昇します。その時後部座席で機銃を乱射してる米兵の顔まで見えました。米機はA26と云う双発の軽爆撃機のようでした。暫らくして静かになったので家に帰りましたが壁に数発弾が貫通してました。あぜ道にはあちこちにキラキラと真鍮の薬莢が散乱してました。

Gyokuon01 15日昼には近所の家に集まってラヂオを聞きました。雑音が酷く、天皇陛下の言葉
(玉音放送音声で聞けますも難しくて始め意味は良く判りませんでしたが、どうも負けたらしいと皆が云うので早く神戸に帰らねばとすぐ支度し、リュックに芋や大豆などを入れて駅に行きました。

九州管内の機関車は皆ボイラーに機銃で穴が開けられ動きませんと駅員は云いましたがとにかく動くまで待つからといって切符を売ってもらいました。駅の構内はもう復員する兵隊が数十人いました。待合室の壁には「檄!九州帝国は独立して戦う。男子は皆武器を持って集まれ。女子供は食糧を持って○○の山中に避難せよ」と書いた畳1畳ほどの紙が貼られていました。


が暮れて暫らくして最初の汽車がヤット来ました。車内は皆兵隊でした。大きな袋を持ってましたが、民間では見ることの無い砂糖や毛布などが詰まってました。久留米に着くと町は未だ燃えてました。筑後川の鉄橋は爆撃でV字型に折れています。我々は荷物を背負って枕木を1歩1歩注意して渡りました。鳥栖も燃えていてその明かりが頼りでした。

門司が近づくと中国軍が上陸してると云う情報が伝わってきて、兵隊は皆慌てて襟の階級章をちぎったり、軍隊手帳を捨てたり、軍服を平服に着替えたりしていました。

しかし朝門司に着いても静かでした。連絡船は林のような沈船のマストを縫って対岸に向かいます。機雷にも触れず下関に着きました。岩国駅は爆撃で操車場は穴だらけ、線路は曲がり貨車は何台もひっくり返っていました。


Ya5i
島には日が暮れてから着きました。真っ暗でプラットホームには数本の電柱があるだけ、何もありません。唯異様な臭気だけが漂っていました。2,3時間待って次ぎの汽車が来たので我先に乗りました。私は窓からリュックを放りこんで窓によじ登り転がり込みました。超満員で網棚にも人が横になり、座席の背もたれに乗って網棚に掴まり身を支えている人もいました。

翌朝遅くやっと神戸に着きました。ここでは未だ軍服に軍刀を下げた将校が歩いていました。出発以来連絡が取れなかった自宅に帰ったら皆物凄く喜びました。


00001_12 「春樹の雑記帖」より
http://homepage3.nifty.com/harukinote/

現在の人生を謳歌している一つは絵を描くこと、旅行をすること。他にも多くの趣味を楽しんでいる。その中で裸婦のデッサンを一枚、ここに転載する。

Nudebackmono1 随想「日本教育」を見ると、この人の現在、教育についてどう思っているか、それを書いて文章があったが、戦時中の帝国主義が未だに抜けないというか。硬い思想に融通の利かない愛国主義を述べていた。多分戦後の社会でも恵まれた道を歩いた幸運の人だったようで、老後ずっと世界を旅している様子だし、絵を描いているだけの余暇と才能があって、どこか高いところから見ている。

赤紙召集令状のからくり  関東軍 機密費戦費まかなう阿片 戦争体験を聞く 喉元を過ぎれば 戦争の記憶が薄れるご時世 1 争の記憶が薄れるご時世 2  戦争の記憶が薄れるご時世 3 シベリアの抑留日記  ソ連兵強姦の現実 手記 文藝春秋   後満州引き揚げ 故郷への道  我が子を手にかけ 満州引揚げ  

最後まで読んだついでにクリックにも協力してね!
   ↓   ↓

人気blogランキングへ  nozawa22ブログ順位がわかる 

|

« 硫黄島玉砕 昭和19年(渡辺謙) | トップページ | 亀田興毅 対戦相手ランダエタ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 硫黄島玉砕 昭和19年(渡辺謙) | トップページ | 亀田興毅 対戦相手ランダエタ »