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2006年11月22日 (水)

早稲田信愛学舎OB会 思い出すこと

2387 昭和35年(1960年)の9月4日に初代のメンバーが信愛学舎に入寮した。そのころのメンバー、4学年9名集まった。2006年11月だから40年以上ぶりである。千代田区麹町3-7-9ラヴェリテ

読売新聞社の執行役員になった斉藤彰さんを祝い、肴にして食事する会であった。

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斉藤君が大学3年ころ、塾の夏合宿で箱根小涌園へ行くときに、彼に生徒の引率助手を頼んで同行してもらったことを思い出した。そつなくこなしてくれたので、安心できた。読売の重役をアルバイトに使ったんだ。あのころのソフトさと風貌は今も変わらない。当時、よく信愛の後輩をアルバイトに頼んでいた。

入寮当初、部屋に集まってそれこそ喧喧ガクガク話し合った。論争の主導はいつも近藤富雄君だった。彼の弁舌には、新米入寮者は煽られぱなしだった。しかし、陽気でリーダーシップの裏では、めちゃくちゃ落ち込んでいた。

Kondo01入寮して10日目頃、近藤富雄君甘泉園に行こうと誘ってくれた。あの頃は若かったから、すぐ親しくなって、行動を共にできた。私は、近藤・小松清さんの隣室という関係で、入り浸っていたので、話相手によかったのかもしれない。

甘泉園公園は、清水家の屋敷で有った土地、大政奉還の後、明治時代には、相馬候爵邸となり、そののち、昭和初期は、早稲田大学が譲り受け、昭和36年に、経済学部増築にあたり旧水稲荷神社境内と土地交換をし、同神社が庭園の一部に移転し、東京都に売却された。都立公園となった甘泉園公園は、その後、昭和44年に新宿区に移管された。

Kawasaki_1 川崎悦伯さん 近藤君は、相思相愛になった同クラブのMさんとの間柄を彼女の両親にぶちきられたばかりだった。それを聞いてもらいたいと思っていた。夏休み、帰省が同じ方向だったので、彼女を連れて尼崎の実家に連れてきたのだそうだ。そして彼の家で一泊して、彼女は家に帰った。

Matuda_1松田秀次郎さん  Mさん、家で両親に好きな人ができたと伝えた途端、両親は烈火のごとく怒り、二年の2学期から学校へは行かせない、となった。このことは、しばらくは彼の耳には届かなかった。彼女の手で近藤君には伝えることができず、同クラブの女性Kさん(不二家のペコちゃんに似た人)へ手紙を書いた。

そのKさんから近藤君に伝えられた。彼は有頂天から一気に奈落へ落とされてしまった。最初岩波舎監に話しに行って、泣いて泣いて、岩波さんも困ったらしい。(この当時、岩波舎監は東京女子大の現奥さんと恋愛中)

Matuo_1 松尾義勝さん 甘泉園で夜空の星を見ながら、何時間しゃべったろう。かなり、彼のMさんに対する思いを聞かされた。その数日後、同室の小松さんを含めて、Mさんのことについて悩みを語った。

彼の太股に異常が発生したのは、10月頃だったと思う。股が異様に膨らんでいたが、痛いとか、そういうことはない様子だった。それで「野沢君、相撲をとろう。君には負けないよ」と組んできた。確か、右足には力は入らないにも係わらず、彼は互角に力を出した。普通だったら、体格のいい近藤君には叶わないだろうが。

Nozawa_1野沢常雄 10月末、私の日常生活の態度が真剣ではない、と1時間にわたって厳しい忠告を受けた。

物事、人生に渡って、彼の言葉を聞いた。生き方に対しあえて苦言を言われるのは始めてだった。大抵の人はあたり触らずの付き合いをするのに、その人のためを考えてくれて、直言忠告してくれた。自分の利を考えた付き合いでなく、人のために立ち入って言うという彼の考えは、今考えても、得がたいと思う。

そういう意味で、信愛学舎は素晴らしい場所だ、と感じた。それが彼の遺言になってしまった。

今となって思うと、彼は必死に生きようとしていたのだろう。先入観なしに人の懐に飛び込む素直さ、屈託のなさが、彼にはあった。たいてい普通、体裁やかっこ、損得を考えてしまうが、その点、彼は邪心がなかった。植松先生や酒枝先生、松下理事など、特に大人に可愛がられていた。

彼が健在であれば、舎生たちのお互いがもっとコミットして、生き方について語りあう場所になっただろう。それだけの体ごとぶつかっていく勢いがあった。それが信愛学舎の伝統になったのではないか、そんなふうに思っている。その後、慣れもあるが、寮生は安易な生活に流れたような気がする。

この後、彼は自分の足が肉腫と知り、尼崎に帰り、入院し手術することになる。

翌年1961年、春休み3月28日、(浜、斉藤、難波君と大阪で落ち合った)近藤君の家へ見舞いに行った。手術後で痛みはあっただろうに、嬉しそうに歓迎してくれた。その日、彼の家に泊って迷惑かけに行ったようなものだった。

彼は足を切断することはせず、患部の切除でとどめた。これが、命を落とすことになった、と後からみんなは言った。

Saito_2 斉藤彰さん 近藤君としては、片足にはなりたくないのは希望であった。若さゆえの彼の選択を責めることはできないが、片足でも生延びて、その後の人生を歩んでほしかった。片足で一番勇気のある日本人として生きてほしかった。

5月3日早朝、岩波さんの館内放送で、近藤富雄兄の死を知った。近藤富雄君、午前1時15分死亡。

近藤君は、自分が病気と戦っているさ中も、信愛学舎の中のことを考え、心配していた。病床で洗礼を受けたと聞いた。もちろん、Mさんのことは、片時も忘れてはいなかったと思うが、心が弱くなったのかも知れない。

Sakai_1 坂井重憲さん 彼の死を知ってから、朝礼拝で中村太郎さんが、近藤君の最後を見舞った先輩の武藤さんから聞いた話を伝えた。

4月30日武藤さんが見舞ったとき、彼は酸素吸入をして、呼吸の苦しい中、話をしていた。5分しゃべっては休憩して、また話をした。苦しくて話を続けられないので手を握って、「僕は、もう泣かないよ」と言って、大粒の涙を流した。 

Satou_1佐藤肇さん 彼は死の世界に半分足を踏み込んでいたのでしょう。やせ細って、エネルギーを使い果たしていた。最後に「死にたくない」と言葉を残したそうです。

死は人間の宿命ではありますが、21歳と2ヶ月の死は、死んでも死にきれない命だっただろう。Mさんのことは、信愛のO君に託して去っていった。信愛学舎に入寮して半年から一年は激動した時間であった。彼の後には、寮生で死んだ人はいないだろう。後に、O君はMさんと結婚した。

Takabe02高倍宣義さん このたび、卒業後40年たって、集まった面々が会った日に、彼近藤富雄君がここにいたら、どんな言葉を発するか、聞きたいものだ。また、彼だったら、40年でどんな業績を残したか、知りたいものだ。

同期は、40年歳月を経て、みな一仕事を終えて、再びあいまみえた。久闊を叙するときを持ったのである。これは、楽しくもあり、徐々に近藤君と同じ世界に近づいている。

Yamaguti 山口康峯さん 今回、山口さんの企画司会によって、ずいぶんスムースの進んだ。彼のまとめの才覚が光った。満遍なく目を配ってくれたので、発言も公平にできた。

(掲載写真はアルファベット順)00008_186 

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