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2006年10月21日 (土)

Always文京区動坂の夕日

Komagome_map_1 夕方7時ころ、東京で下りた駅が田端だった。叔母の家へ行くつもりであった。高校卒業した年、中途半端に髪の毛が伸びた頭でやってきた。田舎の感覚で兄に迎えに来てと電報打ったが、東京駅で会えそうにないので、田端まで来た。昭和33年、東京タワーができる年、映画「三丁目の夕日」と同じ年、迷子状態で田端、動坂へ着いた。ようやく兄貴に見つけてもらい、おばの家に向かった。

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夕日の明るさがまだ町に残っていたような、田端の石垣の道をまっすぐ歩いた。この石垣が城壁のようで不思議だった。兄貴がつきあっていた彼女とすれ違い、兄貴もやるじゃない、と思ったりした。

それから数年は、動坂の叔母の家に厄介になった。そこで成人式を迎えたし、ここから都電で大学に通った思い出の地だった。裕次郎の映画「おいらはドラマー」嵐を呼ぶ男―を女の子と始めて映画を見たのもその頃だった。デートそのものも、慣れていなくて面白くなかった。

Douzaka_syokudou01今は立派な構えだが、昔は木造だった。動坂という名前は、千駄木、駒込ほど、あまり有名でない。長く東京、千葉に住んでいても口のはに上ることがすくない。動坂の角には木造の『動坂食堂』定食屋があった。長いこと世話になった。ここで昼ごろ一食食えば、後は寝る前に夕食食って、今日一日はOKという感じだった。

 独身男が集まってくる食堂で知られていた。木造に平屋建ての建物は数十年い使われた建物のようだった。テーブルが6脚か、8脚。近くには零細な工場が多くあった。文京区駒込林町あたりから、昼休み時間になると、若い男たちが出てきて、食堂はいつも満員だった。一時過ぎの工員たちが引けたあとに行って、定食を注文した。色白の小柄で可愛いお姉さんが男たちに人気があった。いつの間にか、彼女のおなかが大きくなったようだった。

Photo_3 あそこで見たテレビで、寸又峡で金嬉老が人質を取って篭城していた。事件概要 警察官が記者会見と言って犯人が出てきたこところを取り押さえられた。その時、NHKの放送記者吉村秀実が実況を放送していた。動画 

仕事の帰り、田端新町のキッチン清水で、ひとつ覚えのように「ポークソテイ定食」を注文していた。ここで見たテレビは、ビートルズ来日、武道館公演の実況だった記憶がある。

私が行けば、ソティ定食と思っているように、ここのウエイトレス姉妹がメニューは持ってきても見せるでもない。少しお姉さんの年頃でいい感じの人だった。個人的に話をすることなく、足が遠退いた。

何年もたって、女房を連れで田端、動坂を見てまわって、キッチン清水に入ると、まだお姉さんがいた。見覚えているように、注意して私たちをみているようだった。このキッチン清水はその後どうしたのだろ。ここで見たテレビは、ビートルズの来日のニュースだった。

 角の仕出屋『花屋』は料理をいろいろ作っていた。中で食事もできいた。好きな焼き魚がしま鯵の焼いたのがうまかった。普通の鯵とちがって大ぶりで味もいい。これを買っては食べた。今は、結婚式場のようなことをやっていた。

9の日が縁日だった。動坂は交差点の角『花屋』から坂上の都立駒込病院までの道だった。あの道は全部戦災で焼け野原だったとか。縁日では、私は叔母に頼まれて、タバコ屋の店番やっていると、私も「ありがとうございました」一声で、「あなた、岐阜県出身?」と田舎のなまりをすぐ発見された。近くにすんでいる人と親しくなれたのは、昭和30年代のよさだった。

通りに面したところは戦災で、バラックから立ち上がった家並だったが、林町、駒込林町の奥まった一角は江戸時代か、明治から続いているお屋敷が数十軒並んでいた。広い屋敷には映画でしかお目に掛からないような庭が塀に囲まれていた。この家を相続したら、きっと相当の相続税がかかりそうだった。

動坂の隣には、富士見という場所がある。江戸時代は、文京区のこのあたりは富士山がよく見えたという。そこにある富士神社は山開き(7月1日)にあわせて、境内に縁日のように出店がでる。境内の奥にビルの2階くらいの高さの山があって、夕日がよく見える

都立動坂病院で診察や治療してもらったことは一度もないが、あそこは広いから、散歩コースでもあった。ある日、動坂病院の庭に自転車で幟を立てて入ってきたおじさんがいた。60代半ばと言う感じで、上半身は裸か、シャツ一枚だった。他人にかまわず「ワッハハハ!、ワッハハハ!」とあたりかまわず、笑いを振りまいていた。笑いを病気の人に振りまきにきたようだった。笑いは、ホメオパシーの一種かもしれないが、指圧の浪越徳次郎がテレビに出る前の話だ。

動坂食堂の角あたりの一角は、大きなビルに変身してしまっていた。その後、角の『花家』は、結婚式場になっていたが、今は何になっているやら。都電の通りにあった国民銀行、富士銀行は、どうなっただろう。上野から早稲田に向かう都電通り(不忍通り)を行くと、神明町になる。神明町車庫の手前にあった動坂映画館も田舎臭く、いい味していた。隣の本屋、博文堂も世話になった。神明町車庫もいい味あったな。今車庫は、都営住宅、図書館だ。

長男が生まれる昭和40年代まで神明町にいたが、あの周辺に残っていた田舎ぽさ、昭和30年代の動坂はもう消えていた。産科の医院も、成り立たなくなって「地元への感謝の言葉」を張り出して、妻の田舎へ移転する決意を表明して消えた。とたまたま、出会った大工さんに聞いた。「近くにとろろ昆布をつくる店があった」と話をしたら、その人と動坂話で盛り上がった。

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動坂食堂の角あたりの一角は大きなビルに変身してしまっていた。角の花家はその後、結婚式場になっていたが、今は何になっているやら。国民銀行、富士銀行は、どうなっただろう。動坂映画館も田舎臭く、いい味していた。隣の本屋、博文堂も世話になった。神明町車庫もいい味あったな。今は、都営住宅、図書館だ。

投稿: | 2010年10月 6日 (水) 17時52分

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