« 育児ネグレクト 秋田の例 | トップページ | 真夏のアルバイト1 »

2006年7月30日 (日)

青森県三戸郡猿辺村 昭和29年の夏

2gun  昭和29年、中学3年の夏休み、青森猿辺(さるべ)村の診療所に勤めていた長兄のところに行った。(青森県)三戸郡猿辺村(地図中、2が三戸郡)は十和田湖の岩手県に近い場所である。昭和6年全国でもワースト病気多発地帯、300戸中250戸で病人がいると宮本百合子の論文に書いてある。

  K兄と二人で、東京上野から各駅停車で21時間かかって三戸へ行った。降りた三戸駅は田舎町で、岐阜県中津川も田舎だが、もっと田舎だと感じた。長兄は兄嫁と診療所の軽トラックで駅へ迎えに来てくれた。私たちは軽トラックの荷台に乗った。猿辺村は、田舎町だと思った三戸から、さらに山をいくつか越えて、振動で飛び上がるような道が続いて、ようやく着いた。2時間はかかった。

★読み始めたら、ここで木戸銭クリックしてね!
   ↓   ↓

人気blogランキングへ nozawa22ブログ順位がわかる

「この辺は、冬は雪が2メートルは積もって、町には出られなくなるのよ。夏はいいのだけど」と英子姉さん。「有名人は横綱鏡里。猿辺村の近くに、鏡里のおじさんがいるわよ、お腹が出っ張って鏡里を小柄にした感じ」という。

矢継ぎ早の話題を姉は話した。東京からお客さんが来ることはないから、話す相手が欲しかったのか、姉はおしゃべり続けだった。

診療所に隣接する一軒家が兄の家だった。兄はまだ30歳になったか、ならないか、そんな年齢だった。姉は7歳年下23歳だった。兄は大学の研究室で博士号を取るための勉強中であったが、青森のl猿辺村診療所へ派遣されていた。それまでに、あちこちに。青ヶ島とか、浜松から天竜川をさかのぼった辺地へ派遣されていた。

猿辺村で一番驚いたことは、まず言葉が全員、訛っていることだった。聞き取れないズーズー弁だった。こっちの話す言葉は理解されているが、相手のいうことがひとつも分らない。中学生だから、理解力がないせいでもあるが、とにかく、20日ほどいる間に方言がまず理解できなかった。

緑は多く、空気はきれいだし、姉の作る食事は美味しかったから、のんきな気分だった。数日すると、あまりに私がのんびり遊んでいるので、兄嫁の英子さんに注意された。「中学3年生がこんなでいいのか」と。「東京の中学生は毎日勉強している。あなたもしっかり計画を立てて勉強しないで、どうするの?」

そこで計画表を作って見せたら、「それではダメ、ダメ、朝は6時に起きて、夜12時まで勉強しなさい。」田舎の中学生には、驚天動地のスパルタだった。実行できない、と言ったが、「とにかく、やりなさい」と、顔は優しいが、姉の強さは抜群だった。勉強を見てくれるというワケではないが。

計画に従って、朝6時起床、まず勉強。食事のあと、少し運動で外に出るが、すぐ勉強。昼食後、散歩して夕食まですぐ勉強。夜も同様に勉強。12時まで続く。1日合計12時間以上、テレビや電子ゲームがあるわけでもない。まったくの勉強漬けだった。

都会育ちの姉からしたら、私は相当勉強しない中学生と思われた。事実、ひどいものだった。中学生でありながら、ローマ字なんか、おぼろげな知識でしかなかった。一日掛かりでローマ字表を作って読めるようにした。この程度の基礎知識を知らないのだから、田舎の中学生のレベルが知れよう。

田舎から持ってきた夏休みの宿題をやった。今も覚えているのは
 「霞立つ都をいでて 秋風ぞ吹く 白河の関」
 平安の歌人が歌った和歌があった。白河の関=福島まで京都から来てできたなら、その歌の評価が高いはずと思って、その歌人は京都で半年身を隠し、日焼をしていた。
 というエピソードつきの話を勉強した。兄も昔、学んだ話で知っていたのか、兄貴風を吹かせて講釈が意外と長かった。

 とにかく、兄の家にいる間、後半10日間は野球部の特訓のように
「勉強しなさい」といわれ、囲い込まれて勉強した。勉強を強制的と感じたのは後にも先にも始めてだった。詰め込めば、それが可能になるものだ。教育ママがついていると、こんなに勉強できるものだとは、そのときが初めて知った。

 8月10日過ぎ頃、盆踊り大会が診療所隣、猿辺村小学校のグランドで行われた。その日は急に騒がしくなった。地元猿辺村の人が集まって踊ったり、歌ったりしていた。地元の言葉は全然分らないが、歌いだすと、驚いたことに、この人たち、当然だけれど、訛りはない。普通の歌い手とまったく同じ、なまらない言葉でよくわかる。それが妙に印象深かった。

青森は秋が来るのが早い。もう8月に赤とんぼが飛び始めていた。
人を恐れないトンボは、手でつかむまで逃げない。驚いた。夕方になると、山中の風は涼しくなった。猛暑といえる時期は、七月終りと八月初めの一週間から10日程度の昼間だけ。

病院(診療所)だから、入院している人もいる。結核が多かった。42歳の女性は、長く入院していて兄の家にきてはしゃべっているが、内容がさっぱり分らない。翻訳してもらうと、もう孫もいるから、私はいつ死んでもいい、そういっているとか。42歳で孫?とまだ子供もいない兄嫁はびっくりしていた。
 
こんな話も聞いた。看護婦同士で喧嘩して、病院内を走って追いかけまわすのだとか。
 「先生!」と言って、兄の家へ飛び込んでくることがあるという。
 「すごい喧嘩で、その仲裁もあるのよ」と聞いた。幸い、滞在中には一度もなかった。看護婦選びが難しい。

 当時、中学生くらいの子が出入りしていて、その子「先生、看護婦になったら、先生の病院でぜひ働きたい」と姉になついていた。性格もいいから、とかわいがっていた。

 八戸の港から行商のおばさんがイカを背負ってきて、どさっと箱ごとイカを置いていった。それから毎日イカを食った記憶がある。新鮮なイカでうまかったが、朝昼晩とイカづくしであった.八戸漁港でイカが大量だと、猿辺村まで、こうなるのだとか。
 夜になると、空の星がよく見えた。NHKラジオの名曲を思い出と共に紹介するコーナーで、岡本太郎が自分の思い出の曲として「ラルゴ」という曲を上げた。水泳の日米対抗戦を実況していた。

 ある日、「きょうは診療所へ見にきてもいい」
 と言われて、兄の執刀の手術を見せてもらった。盲腸(虫垂炎)の女性(18歳)だった。多分お金がかかるからと、長いこと痛いのを我慢をしていたらしく、病状が悪化していた。
 手術するときシーツを取ると、げっそりやせてお腹はペッシャンコだった。麻酔して、腹にメスを入れ、慣れた感じで化膿した腸を取り出した。縫い合わせるまで、手術は二時間もカからないで終わった。初めて手術と言うものを見た。この人、順調に回復したようだが、アレ以上放置したら、命にかかわるところだった、らしい。

Hideko2 S34.5月桧原湖
 勉強ばかりでは、気がふさぐからと、岩手県のリヤス式海岸へいつも軽トラックの荷台に乗せてもらって行った。八戸市までの直線道路があるのだけど、「セメント舗装」道は冬の寒さでか、道路の真ん中がヒビ割れていた。軽トラックの運転は、道路の割れ目をさけて蛇行、蛇行の連続だった。これが珍しかった。

 海だから遠浅の砂浜だろうとイメージして行ったら、みごとに期待を裏切られた。岩だらけの海岸であった。それでも、青森から岩手の一日旅、英子姉さんのおにぎりが、作って5時間、ちょうど塩味が美味しかった。姉は結婚前にテレビによく出る先生(田村魚菜)の料理学校へ勉強にいったというだけあって、おにぎりにしても、ラーメンにしても、美味しいし、手際がいい。

 猿辺村を去るときは、私たちが乗った軽トラックが楕円を回るように峠を上って頂上に着くまで、診療所の看護婦さん3人が手を振って、立ち尽くしていた。恥ずかしくて手を振るのができずにいたら、兄に促された。私は、ようやく小さく手を振ったのを思い出す。時は、昭和29年だった。

 十数年後、兄夫婦の悲願であった病院「野沢外科」(栃木県矢板)ができた。猿辺村でなついていた女の子に看護婦になってもらおうと、手紙を書いて問い合わせたが、その子は看護婦になっていたが、歳月がたてば、そうは都合よく来てもらえるわけにはいかなかった。

 兄嫁は、病院建設までの労苦が祟ってか、心弾んでいるはずだったが、数年後、これからというとき、姉は急折した。享年38歳だった。よく叱られたが、いろんな影響を与えてくれた兄嫁であった。

★最後まで読んだついでにクリックにも協力してね!
   ↓   ↓

人気blogランキングへ nozawa22ブログ順位がわかる

|

« 育児ネグレクト 秋田の例 | トップページ | 真夏のアルバイト1 »

コメント

田尻クリニックの深田修司といいます.甲状腺疾患の専門医です.猿辺村の記録,興味深く拝見させていただきました.昭和33年の医学文献に猿辺村には甲状腺疾患が多いということが記載されています.このことを確認したいのですが,その診療所は,今日でも診療されているでしょうか.あるいは別の総合病院に統合されたのでしょうか.
もしご存知ならお教えいただければ幸いです.

投稿: 深田修司 | 2010年5月 5日 (水) 05時47分

深田修司先生
今から50年以上前の話ですので、調べてみましたが、診療所に該当するものは見つかりません。猿辺村の地名も合併のせいかありません。三戸に合併したようです。
ですので、
0179-20-1131,三戸中央病院,039-0141,青森県三戸郡三戸町川守田沖中9-1
三戸で一番大きそうな病院なら、わかるかもしれませんので、そちらで聞いてください。

投稿: nozawa22 | 2010年5月10日 (月) 08時55分

中学生くらいの子が出入りしていて、その子「先生、看護婦になったら、先生の病院でぜひ働きたい」と姉になついていた。性格もいいから、とかわいがっていた。

投稿: 看護婦 | 2012年8月14日 (火) 20時44分

 旧猿辺村(現三戸町)の下田(診療所があった集落)に実家がある者です。
 自分の生まれた、そして今後帰ることを予定している「猿辺」についてネット検索したところ、このページがみつかりました。
 私は昭和39年生まれですが、父母は戦中生まれで、猿辺小学校の隣にあった診療所も覚えているそうです。
 診療所は、既に存在しませんし、猿辺小学校も三戸町内の小学校と統合しました。
 「猿辺」について、この他の記憶・記録がありましたら、取り上げていただければ幸いです。
 以上、突然の書き込み、失礼いたしました。

和田様
 猿辺村へ行ったのは昭和29年の夏です。小学校の隣りに住宅と診療所がありました。八月初旬で夏らしい時期は短かったですね。いまでもありありと思い出せます。
 また、当ブログを見に来てください。

投稿: 和田 | 2014年8月 6日 (水) 11時34分

母に聞いたところ、NOZAWAという名の医師がいて、よく手術をしていた記憶があるそうです。
医師の奥さんについては、記憶にないそうです。

今では、診療所も小学校(下田小学校)も建物は残っていません。
幼い頃遊んだ学校の校庭(当時既に廃校)は、今では水田になっています。
村落から診療所・小学校へ行く途中に、米田(まいた)商店という店があったことの記憶はおありでしょうか。通称「たのしり」と呼んでいました。

また、書き込みに来ます。

投稿: 和田 | 2014年8月11日 (月) 18時24分

北海道に住む64歳の男性です。父母は30数年前に亡くしました。生存中に出身地の情報など、何も聞いておりませんでしたが、叔父より三戸の猿辺村に獅畑部落があり、そこの出身であると聞かされました。廃村になって約60年になり、山に埋もれているものと思っていますが、自分の先祖が生きていた場所を確認したくて、情報を集めていました。現在、電車の時刻表を見ながら検討中ですが、2015年6月ごろに訪れ、そこの空気を吸ってみたいと思っています。たいへん懐かしい猿辺の文字を拝見しました。ありがとうございました。

投稿: | 2015年5月12日 (火) 12時54分

猿辺・下田に実家がある者です。
確かに「獅畑(シシハタ)」というところがあります(聞いたことがあります。)。
診療所のあった「下田」からさらに「杉沢」に向けて少し行ったところを貝名森(山)を回りこむように入ったところ(だと思います。行ったことない。)。

ようこそ、猿辺へ

投稿: 和田 | 2016年1月 4日 (月) 15時58分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 育児ネグレクト 秋田の例 | トップページ | 真夏のアルバイト1 »