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2006年7月13日 (木)

人師は遭い難し 森繁久弥

2000009724 この頃は、森繁久弥は、HNHの社員だったと思う。それで満州に7年か、行っていた。そして、終戦までいたと思う。彼の満州でのエピソードはなかなか貴重である。M1 

彼森繁が結婚して満州へきて、数年たっていたころ、知り合いの医師の紹介で満州の女の子(スーチン)を自宅で雇ったというか、養女のようにしていたときの話である。満州に住んだ日本人の多くは、こうして満州の人を家政婦代わりに雇うことが普通だった。

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最初、会ったのは、彼女謹スーチンが13歳の時である。父親に連れられて初めて会ったとき、日本人の売られていくような意識だろう。父親も不安だったろう。「ピー(女郎)にはマイアマイ(売る)はプッシン(ダメ)」と盛んに言っていた。そういうだまして売り飛ばす悪い日本人もいたから、娘は心配で一杯だったろう。M2 

森繁が月給が80円であったとき、3年間の契約金(親に渡す金)が30円というから、今の日本人の感覚では20万円くらいだろう。今だったら、犬を買う程度の値段だ。

13歳の謹スーチンを連れて帰る列車の中では、甘いものが好きだろうと、彼女に用意しておいたキャラメルにも、スーチンは見向きもしなかった。

昭和10年代、修学旅行といえば、日本の女学校では、満州新京(ハルピン)へ行くことが多かった。満鉄の弾丸列車に乗っていくのがはやっていた。その話しをしてくれたのは、(第二)中学校の国語の澤田先生だと思うが、こんな話を語ってくれた。

満鉄の車内で駅弁の食べ、その弁当の木箱を捨てると、満州の子供達が沿線で群がって拾った。底に付いているご飯粒を食べるんだとか。子供達は、乗客がゴミを窓越しに捨てるのを待っているのだ。国民全体が乞食のように見えた。戦後日本と較しつつ、満州の土着の人々の貧しさを語っていた。今も黒龍江省から日本人の花嫁になろうとする人は多い。嫁いだあと、故郷の親にお金を送ってやっている。

M3森繁はスーチンを玄関に入れたが、すぐには上がらせなかった。まず、髪の毛に酢を塗って、タオルで巻き、シラミ退治をした。しばらくしてから、ようやく家に上げ、風呂に入れてやった。彼女は、その日は何も食べずに寝た。数日して、子供達と仲良くなり、家族となじんできた。

三年経って、16歳になり、スーチンが少し女の色香を漂わせるときになって、別れがきた。涙涙で別れたと森繁は書いている。

00006  息子より10数歳ちがっていたという。森繁の68歳の文章で50数歳になっているという。戦争でもう音信不通になり、彼の人生の盛んな頃の思い出であり、スーチンにとってはこの13歳から16歳、生い立ちの中で一つエポックメーキングな出来事であったにちがいない。忘れることはできないだろう。

どんな人生を送ったか、読者の私ですら、謹スーチンに会って聞いてみたい。「森繁自伝」には、満州での終戦時のエピソードが盛り込まれ、最高に面白い。ぜひ一読を勧めたい。

人師は遭い難し、この意味は、この謹スーチンも師であったということ、かな。

人師は遭い難し 森繁久弥  自殺は感謝の挨拶をしてから

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コメント

 私の枕元にこの本があります。
 時々寝る前に読むことがありますが、横になっているせいか涙で読み辛くなります。

投稿: キトリ(夫) | 2010年2月 9日 (火) 16時45分

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