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2006年7月30日 (日)

青森県三戸郡猿辺村 昭和29年の夏

2gun  昭和29年、中学3年の夏休み、青森猿辺(さるべ)村の診療所に勤めていた長兄のところに行った。(青森県)三戸郡猿辺村(地図中、2が三戸郡)は十和田湖の岩手県に近い場所である。昭和6年全国でもワースト病気多発地帯、300戸中250戸で病人がいると宮本百合子の論文に書いてある。

  K兄と二人で、東京上野から各駅停車で21時間かかって三戸へ行った。降りた三戸駅は田舎町で、岐阜県中津川も田舎だが、もっと田舎だと感じた。長兄は兄嫁と診療所の軽トラックで駅へ迎えに来てくれた。私たちは軽トラックの荷台に乗った。猿辺村は、田舎町だと思った三戸から、さらに山をいくつか越えて、振動で飛び上がるような道が続いて、ようやく着いた。2時間はかかった。

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「この辺は、冬は雪が2メートルは積もって、町には出られなくなるのよ。夏はいいのだけど」と英子姉さん。「有名人は横綱鏡里。猿辺村の近くに、鏡里のおじさんがいるわよ、お腹が出っ張って鏡里を小柄にした感じ」という。

矢継ぎ早の話題を姉は話した。東京からお客さんが来ることはないから、話す相手が欲しかったのか、姉はおしゃべり続けだった。

診療所に隣接する一軒家が兄の家だった。兄はまだ30歳になったか、ならないか、そんな年齢だった。姉は7歳年下23歳だった。兄は大学の研究室で博士号を取るための勉強中であったが、青森のl猿辺村診療所へ派遣されていた。それまでに、あちこちに。青ヶ島とか、浜松から天竜川をさかのぼった辺地へ派遣されていた。

猿辺村で一番驚いたことは、まず言葉が全員、訛っていることだった。聞き取れないズーズー弁だった。こっちの話す言葉は理解されているが、相手のいうことがひとつも分らない。中学生だから、理解力がないせいでもあるが、とにかく、20日ほどいる間に方言がまず理解できなかった。

緑は多く、空気はきれいだし、姉の作る食事は美味しかったから、のんきな気分だった。数日すると、あまりに私がのんびり遊んでいるので、兄嫁の英子さんに注意された。「中学3年生がこんなでいいのか」と。「東京の中学生は毎日勉強している。あなたもしっかり計画を立てて勉強しないで、どうするの?」

そこで計画表を作って見せたら、「それではダメ、ダメ、朝は6時に起きて、夜12時まで勉強しなさい。」田舎の中学生には、驚天動地のスパルタだった。実行できない、と言ったが、「とにかく、やりなさい」と、顔は優しいが、姉の強さは抜群だった。勉強を見てくれるというワケではないが。

計画に従って、朝6時起床、まず勉強。食事のあと、少し運動で外に出るが、すぐ勉強。昼食後、散歩して夕食まですぐ勉強。夜も同様に勉強。12時まで続く。1日合計12時間以上、テレビや電子ゲームがあるわけでもない。まったくの勉強漬けだった。

都会育ちの姉からしたら、私は相当勉強しない中学生と思われた。事実、ひどいものだった。中学生でありながら、ローマ字なんか、おぼろげな知識でしかなかった。一日掛かりでローマ字表を作って読めるようにした。この程度の基礎知識を知らないのだから、田舎の中学生のレベルが知れよう。

田舎から持ってきた夏休みの宿題をやった。今も覚えているのは
 「霞立つ都をいでて 秋風ぞ吹く 白河の関」
 平安の歌人が歌った和歌があった。白河の関=福島まで京都から来てできたなら、その歌の評価が高いはずと思って、その歌人は京都で半年身を隠し、日焼をしていた。
 というエピソードつきの話を勉強した。兄も昔、学んだ話で知っていたのか、兄貴風を吹かせて講釈が意外と長かった。

 とにかく、兄の家にいる間、後半10日間は野球部の特訓のように
「勉強しなさい」といわれ、囲い込まれて勉強した。勉強を強制的と感じたのは後にも先にも始めてだった。詰め込めば、それが可能になるものだ。教育ママがついていると、こんなに勉強できるものだとは、そのときが初めて知った。

 8月10日過ぎ頃、盆踊り大会が診療所隣、猿辺村小学校のグランドで行われた。その日は急に騒がしくなった。地元猿辺村の人が集まって踊ったり、歌ったりしていた。地元の言葉は全然分らないが、歌いだすと、驚いたことに、この人たち、当然だけれど、訛りはない。普通の歌い手とまったく同じ、なまらない言葉でよくわかる。それが妙に印象深かった。

青森は秋が来るのが早い。もう8月に赤とんぼが飛び始めていた。
人を恐れないトンボは、手でつかむまで逃げない。驚いた。夕方になると、山中の風は涼しくなった。猛暑といえる時期は、七月終りと八月初めの一週間から10日程度の昼間だけ。

病院(診療所)だから、入院している人もいる。結核が多かった。42歳の女性は、長く入院していて兄の家にきてはしゃべっているが、内容がさっぱり分らない。翻訳してもらうと、もう孫もいるから、私はいつ死んでもいい、そういっているとか。42歳で孫?とまだ子供もいない兄嫁はびっくりしていた。
 
こんな話も聞いた。看護婦同士で喧嘩して、病院内を走って追いかけまわすのだとか。
 「先生!」と言って、兄の家へ飛び込んでくることがあるという。
 「すごい喧嘩で、その仲裁もあるのよ」と聞いた。幸い、滞在中には一度もなかった。看護婦選びが難しい。

 当時、中学生くらいの子が出入りしていて、その子「先生、看護婦になったら、先生の病院でぜひ働きたい」と姉になついていた。性格もいいから、とかわいがっていた。

 八戸の港から行商のおばさんがイカを背負ってきて、どさっと箱ごとイカを置いていった。それから毎日イカを食った記憶がある。新鮮なイカでうまかったが、朝昼晩とイカづくしであった.八戸漁港でイカが大量だと、猿辺村まで、こうなるのだとか。
 夜になると、空の星がよく見えた。NHKラジオの名曲を思い出と共に紹介するコーナーで、岡本太郎が自分の思い出の曲として「ラルゴ」という曲を上げた。水泳の日米対抗戦を実況していた。

 ある日、「きょうは診療所へ見にきてもいい」
 と言われて、兄の執刀の手術を見せてもらった。盲腸(虫垂炎)の女性(18歳)だった。多分お金がかかるからと、長いこと痛いのを我慢をしていたらしく、病状が悪化していた。
 手術するときシーツを取ると、げっそりやせてお腹はペッシャンコだった。麻酔して、腹にメスを入れ、慣れた感じで化膿した腸を取り出した。縫い合わせるまで、手術は二時間もカからないで終わった。初めて手術と言うものを見た。この人、順調に回復したようだが、アレ以上放置したら、命にかかわるところだった、らしい。

Hideko2 S34.5月桧原湖
 勉強ばかりでは、気がふさぐからと、岩手県のリヤス式海岸へいつも軽トラックの荷台に乗せてもらって行った。八戸市までの直線道路があるのだけど、「セメント舗装」道は冬の寒さでか、道路の真ん中がヒビ割れていた。軽トラックの運転は、道路の割れ目をさけて蛇行、蛇行の連続だった。これが珍しかった。

 海だから遠浅の砂浜だろうとイメージして行ったら、みごとに期待を裏切られた。岩だらけの海岸であった。それでも、青森から岩手の一日旅、英子姉さんのおにぎりが、作って5時間、ちょうど塩味が美味しかった。姉は結婚前にテレビによく出る先生(田村魚菜)の料理学校へ勉強にいったというだけあって、おにぎりにしても、ラーメンにしても、美味しいし、手際がいい。

 猿辺村を去るときは、私たちが乗った軽トラックが楕円を回るように峠を上って頂上に着くまで、診療所の看護婦さん3人が手を振って、立ち尽くしていた。恥ずかしくて手を振るのができずにいたら、兄に促された。私は、ようやく小さく手を振ったのを思い出す。時は、昭和29年だった。

 十数年後、兄夫婦の悲願であった病院「野沢外科」(栃木県矢板)ができた。猿辺村でなついていた女の子に看護婦になってもらおうと、手紙を書いて問い合わせたが、その子は看護婦になっていたが、歳月がたてば、そうは都合よく来てもらえるわけにはいかなかった。

 兄嫁は、病院建設までの労苦が祟ってか、心弾んでいるはずだったが、数年後、これからというとき、姉は急折した。享年38歳だった。よく叱られたが、いろんな影響を与えてくれた兄嫁であった。

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2006年7月29日 (土)

育児ネグレクト 秋田の例

Neg1 うるさいからと、段ボールに一晩閉じ込められた娘、気の毒だった。この子の気持ちを察することは難しいが、頼るのはこの親しかいない。そうすると、いくら残酷でも親の顔を見ながら、機嫌を見ながら、生きていくしかない。

そうすると、この子ができることといえば、タダの飴をもらったら、「お母さんの分をもらっていいですか?」と、母親を喜ばせようとしたとしても、不思議ではない。

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Neg2拡大して読んでください。 子供が生きていくには、母親からこれ以上痛めつけられない方法はなにか、それを考える。母を喜ばせれば、食べ物を食べさせてくれるだろう。カップ麺を買わせにやったというが、割引して聞いたほうがいい。多分いつもおなかを空かせていたと思う。

民生委員の人は、どの程度の人かわからないが、母親鈴香の性格や考え方、これがどの程度のものか、わからなかったのではないか。多分言葉を信じてしたような印象があるが、ネグレクトされる子供を救う民生員制度自体が機能していない。もっと子供を社会が救う気力がないと、もっと犠牲者がでるだろう。

暗い段ボールの中に閉じ込められ、ガムテープで止められたら、どんな気持ちだろう。空けてもらえないつらさ、体験してみないと、その悲しみはわからない。苦しさ、痛さより、つらさ、悲しさ、これが人間を奴隷にしてしまう。だんだん、根性がひねくれてしまうだろう。それを一生懸命ににこやかな顔をしている努力をしていたのではないかなと思う。

Images_6親にネグレクトされていると、自分の正直な感情、気持ちを表明できない。親に愛されて、自分の存在が認められている普通の幸せな子は、イヤな時はイヤと言えるし、嬉しいときは嬉しいといえる。

親に嫌われていると、家にいることすら親の邪魔、余計な子と思われ、いつもオドオドした気持ちになる。隅っこで親の目の色を伺っている子になる。すると、性格まで暗くなる。性格の形成途上だから、ゆがんでくる。人間のハード(構造)ができていないから、大きな影響が影を落とす。人間のハードができ上がった後なら、気分を害する程度で済むが、幼少期は人間全体に影響が出る。

この違いを一般の人には、ネグレクトの怖さがよく理解されていないように思う。私もママ母に育てられて、気を使っていたから、そういう子の気持ちがよくわかる。私もニコニコしていた方が母に好かれると考えていた。だから、彩香の心の動きを痛いほど感じた。

育ち盛りの子供が多い家に後妻に来てもらうことは、よほど条件がよくないと、後妻に来てもらえない。「子供の面倒はみなくていい」という条件で来たと、よく私たちを育てた母は平然と言っていた。

妻の条件として「子供の面倒は見なくてもいい」と父は言ったんだろう。40代半ばだった父としては、気の合う相手だったし、相談できる女性と思ったのかもしれないが、子供にとっては、たいへんな母に来られたものだった。今考えれば、後妻に来るには、打算があって当然だろう。

食事、洗濯、これらは手抜きだった。小学生のときから、私は自分の物は洗濯させられた。夕食事の支度はやってはくれたが、朝はまず起きてくれなかた。食事だって、両親の食べるものと、最初からずーっと、私たち子供が食べるものは別であった。

いい時もあったが、これは、どう見ても母親のネグレクトだろう。隣のウチの人がかわいそうだと言って、おかずを持って来てくれたことがあったが、そうは続くものではない。

女がママ親をやれば、多かれ少なかれ、似たような継母になる。上手に継母ができる人は、実母の数倍できた人でないとムリだろう。だから、ウチの母は感情のまま振舞った結果、地が出ただけである、と気付くには30年もかかった。

「ふだんぎ」に投書して反響で、案外後妻で苦しんだ人は多いことに気付いた。継子の立場ではなく、後妻にも言い分があるだろう。自分を殺して、いい母をして継子を可愛がっていると、ストレスでおかしくなるだろう。

まあ、40年間、この継母と付き合ったが、それでも、兄弟7人の中でいちばん親しく付き合ったのは私だけだった。両親、特に母親に愛されて、素直にそだった人は、付き合って角がない。人をあまり疑わない。ネグレクト経験をすると、人の好意がストレートに信じられない。必ず、裏がないか、疑ってかかる。屈折した感情がある。

この屈折した感情を超えるために、努力がいる。それを越して平安な性格を獲得するには家庭を持ち、年月を経なければならない。それで普通な気持ちがやってくる。そうすると、案外人様に気を使う度合が減るように思う。これは自戒しなければならない。

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虐待ネグレクト① 育児ネグレクト 秋田の例   出産、子育ては楽しみでありたい   悲しい 母への詩 小4少年    生んでくれた恩、育ての恩、どっちが    子育てイライライ どうするの?    親も しょせん 子供のなれの果て   捨て子の気持ち   新山千春「喜んで!」赤ちゃんの世話   家庭で子育てしながら働くSOHO   おとなの知恵で、丸く治まる 

虐待ネグレクト② 風見しんご 親の悲しみ    お父さんの育児協力    奈良の事件から考える   中国人お母さんの孤独ストレス 幼児殺したネグレクト育児放棄の罪  幼い子を孤独にしてはいけない   施設に預けられている子の背景  親の態度→子供に影響する一覧   離婚した女の生き方、育児放棄の罪 大阪西区 ネグレクト育児放棄の現状  

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2006年7月16日 (日)

レイテ戦記 2

壊滅したレイテで、生き残った人の記録である。

G2sunsetages昭和十九年の十月十九日「Hamabe.mp3」をダウンロード 
数日前から凄い台風が襲っていた。敵の大船団が続々とレイテ湾に集結中との情報があり、小銃一丁持って高台の陣地に着いたが、見渡す限りの海面は、幾百隻かの軍艦と輸送船で埋まり、空を暗くする大編隊敵機の空襲が始まった。

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Gihougekiges_1 何よりも度肝を抜かれたのは、戦艦巨砲の集中砲撃であった。500メートル以内に一発見舞われると、瞬時に壕が潰れて身体が浮き上がり、次回の強烈な爆風で、地面に叩きつけられてしまうのである。


  私は初日に、至近砲弾で右耳と右足を負傷した。気がついた時は、昼なお暗い密林内の野戦病院に横たわっていた。
G3imapges 病院とは名前だけで、寝ていると水気が体中に染みる、ジメジメした地面が病床代わりで、屋根も無く、日に一度は降るスコールで、身体の乾く暇もなかった。
薬品はおろか、傷口をおおう包帯すら考えられなかった。前戦に近いらしく、いんいんたる砲声を聞くジャングル内で、三度の食糧として青カビの生えた一合の生米を支給されて、放置されたままだったのである。
 運ばれてきた将兵は水も飲めず、飢えに熱病を併発して、次々に死亡した。悲惨な生き地獄でもあった。


十日も過ぎただろうか。軍医と衛生兵達は一人残らず姿を消した。撤収命令が出たのか、集団逃亡だかは分からない。
捨てられた私は、「くそ!!死んでたまるか。生き抜いてやる!」と独りで決心していた。

米軍やゲリラの侵入も予想されたが、後日に聞いた話しによると、死臭が酷いのと、生存している人間がいるはずがないとの理由で、恐れをなした敵性人は誰も近寄らなかったそうである。へどを吐きたくなる悪臭は、10キロも手前から嗅ぎつけられるとも言っていた。

Gi5mac 
襲撃は受けなかったが、重症の身で生き延びる辛苦は、並み大抵ではなかった。戦死者が所持していた食糧を這って探し、一ヶ月はもった。それが尽きると、雑草・自然いも・小動物に目をつけた。傷に湧く白いウジ虫の他に、土を手で掘り、みみずも食べた。幾度かは毒草で腹を痛め、食べられる種類を知った。
 巨木の根を住み家にし、
五日間で戦没者が白骨に化するのに着目して、屍を玄関?の前に積み上げた。敵兵が来ても死体置き場だと気味悪く思い、入ってこられないための用心だった。白骨だけがわが身を守る防波堤であり、連日、顔を合わせる友人でもあった。

G4junglees 
不思議にも、足の傷は次第に回復していた。手当り次第に口に入れる原始人生活であったが、重度の栄養失調で頭髪が全部抜け、又、生えた。小石にもつまづく体力の極限状態で、頭の中では、いつも交通信号に似た赤黄青が明滅し、幻覚ともうろうとした気分が続いて、精神もかなりおかしくなっていたと思われる。

  四国の半分しかないレイテ島では、どこで戦闘があっても砲声が聞えるのだが、熱病で一週間食わずに寝ていた私は、ばったりと騒音の音絶えたのに気づいた。

 
日が高くなってから、軽飛行機が低空からビラをまいた。八月十五日になっていて、戦争が終わったのを知った。体力は人間能力の限界付近にあり、高熱で発狂寸前だった私は、座り込んで涙を流していた。助かったからか、今日までの努力が無に帰したためなのか、どうしても思い出せない。かろうじて理性はあったらしいが、まともに考え判断することは出来なくなっていた。

I7mnacs  髪は伸び放題で、土色の顔と全身は得体の知れぬ皮膚病にただれ、ひざ関節の上も下も同じ太さにやせ細って、70キロあった体重は、収容後に計ると29キロに減っていた。 ジャングルを転がるようにして、なぜか飛行場に向かった。
 最初に
発見した米兵は、ガイコツが踊っていると思ったそうだ。

 
雲の上を泳ぐ気分のその日の私は、ひと目でもよいから白骨代わりに、生きた人間が見たく「ヘイ!ジャップ!」との肉声と共に、すっかり安心してその場に倒れていた00008_2

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2006年7月15日 (土)

レイテ戦記 1

Map1 レイテ戦記 には、大岡昌平の作品があるが、まだ読んでいない。

レイテで(千葉)佐倉連隊は全滅したが、その足跡はどうなっているか、それを知りたいと思っているうちに、行き当たったホームページがあった。

佐倉歴史民俗博物館で見た「佐倉連隊にみる戦争」で連隊の戦いの足跡を知りたくなった。

戦記に目を通していくと、戦略とか、戦いの指揮の中に、まるで現代の社会保険事務所そっくりな体質を見出す。人間を紙切れの上で扱うと、こうなる見本だ。日本人の体質か、人類の業か、そういう愚かさを感じる。

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Mm千葉の第五十七連隊は、満州の対ソ連のために派遣されていた兵士であった。終戦の一年前に急遽、極寒の地から熱帯の極暑の地に軍令により、向った。

 これが、レイテ島での戦いの始まりであった。

派遣された兵は、その後1年のうちに、レイテ島の戦闘で戦死、戦病死した。生き残った数、佐倉連隊(57連隊)2500名中120名が生き残った。生存率5%、20人に1名の生存率であった。

以下の文は、ホームページ作成した方の父が書き残した手記から構成されたものである。

昭和十九年八月二十日、暗い箱型貨車に乗り孫呉の駅を後にした。騎兵銃一丁、水筒、雑嚢。歩兵の持つような重さではなかったのが幸いだった。

 昭和十九年八月二十五日、南京に到着。

第一師団の歩兵は、東京の歩兵第一連隊、山梨の甲府の第四十九連隊、千葉の第五十七連隊
に、各二千五百名の兵員がいた。
 外に、師団司令部が片岡師団長(陸軍中将)以下、約三百二十名、第一師団制毒隊、捜索第一連隊、野砲第一連隊は約千九百名。工兵第一連隊は六百九十名、第一師団通信隊、第一師団兵器修理所、第一師団野戦病院、第四野戦病院、第一師団防疫給水部が約一万三千名で、戦車第六連隊の一ケ中隊と戦車第十連隊の一ケ中隊が配属された。

 我が輜重第一連隊(約1250名)は朝倉大佐を長とし、連隊本部、第一中隊、第二中隊、騎馬中隊で、第三中隊、第四中隊は自動車中隊で編成されていた。私がいた第三中隊は土屋中尉を長とし南京に約一ヶ月駐留した。宿舎は日本兵が建てた木造平屋建ての兵舎であった。

Syugo1_1 レイテ島は、大東亜戦争の四年間を通じて、大本営が企図した、唯一の決戦であった。

 マッカーサー軍レイテ島上陸の報に接した大本営は、全海軍、全空軍を動員して、レイテ島沖に敵の大輸送船団を撃墜すると共に、陸上においては、かねてレイテ島守備に任じておる第十六師団(牧野四郎中将、戦死)に、第一師団、第二十六師団(山県栗花生中将、戦死)、独立混成第六十八旅団(栗栖猛夫中将、戦死)等の諸隊を増援し、第三十五軍(鈴木宋作中将、戦死)をして陸上に決戦を求めしめた。「捷第一号作戦」がこれである(写真は、師団中枢の将校たち、現場指揮官)00008

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http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ren-reite.htm

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2006年7月14日 (金)

歌声広場

http://www.fk.urban.ne.jp/home/kazuaki3/utagoe-top.htm

Utagoe 「どこか遠くへ行きたい」で検索したら、音楽歌声が流れてきた。たくさんの歌がメロディーだけだが、いつでも聞ける。これはありがたいページである。

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なぜ音楽が一番直接的に人の心に訴えるのか、これが不思議だ。

昭和30年代、新宿の歌舞伎町周辺にコマ劇場があり、音楽喫茶、ウエスタンの音楽を演奏するところが多くあった。

Sinjyukuten_04012400063 そのころ、灯火、カチューシャとか、歌声喫茶に人気があった。学生を中心にして満席だった。ワンフロアーだけでなく、山小屋のような木造の店で、今だったら消防署が許可しないだろう。三階まで暗くて入り組んだ店で、足元がよく見えない。それでも店一杯に人が入っていた。上條恒彦は、歌声喫茶の司会者出身。

Kamijo_ph_1 今の灯火(ともしび)は昔と似てはいるが、ロシア民謡はやっていなさそう。http://www.tomoshibi.co.jp/utagoe/request.htm

土曜日、日曜日に行ったから、そうだったのかもしれないが、むんむんした人いきれの中で、アコーデオンの演奏があって、ロシア民謡なんかを歌っていた。

最初、寮の中で、歌好きの仲間が行ってきて、歌うんだね。「しゃれこうべは、ラララ言うことには、大砲の弾に・・・」歌詞カードは一軒で5,6冊あって、「月曜日に市場に買い物に行って、火曜日に・・。」とか。歌詞カードの本は小型で黄色い表紙だった。

歌声で巻き込まれて、歌声喫茶のフアンになって、次の土曜日にグループで新宿に出かけた。

リクエストに応えて、アコーデオンを弾く司会者が、なれた調子で指揮して、全員で一つのロシア民謡を歌うのは、言い知れぬ一体感があった。一階から三階までワーンと響き、道の外にまで聞こえる。それは、新宿にあのあたりは歌声喫茶の世界だった。元気よくリクエストすると、「前へ出て歌いませんか」と司会者に誘われる。自信があればね、前へ出るのだが、いつも遠慮していた。案外遠慮だと思ってしつこく言われるが、どうしても出られなかった。そんな思い出がある。

なぜ、歌声喫茶は数年で衰退していったのか、時代なのか。あの原因は、なんだったろうか。

まだ、大きな潮流ではないが、全国には奇特な人がいて、歌声広場を残している。http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/UtagoeMap.html 細かい情報が載っている。

紹介されている店「歌声広場」へ、ふらっと行ってみると、いいかもしれない。青春のひとときが取り戻せたら、もうけもの。00008_14_5

忙しい時に「仰げば尊し」聞く    夏も近づく   旅先で味わう贅沢  ピアノとオカリナ コンサート    心疲れた方へ 童謡唱歌を紹介  さらば昴よ スバル    紅白06 秋山雅史/夏川りみがよかった   みかんの花咲く丘」が歌われた頃    早春賦の季節となって   歌声広場

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2006年7月13日 (木)

人師は遭い難し 森繁久弥

2000009724 この頃は、森繁久弥は、HNHの社員だったと思う。それで満州に7年か、行っていた。そして、終戦までいたと思う。彼の満州でのエピソードはなかなか貴重である。M1 

彼森繁が結婚して満州へきて、数年たっていたころ、知り合いの医師の紹介で満州の女の子(スーチン)を自宅で雇ったというか、養女のようにしていたときの話である。満州に住んだ日本人の多くは、こうして満州の人を家政婦代わりに雇うことが普通だった。

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最初、会ったのは、彼女謹スーチンが13歳の時である。父親に連れられて初めて会ったとき、日本人の売られていくような意識だろう。父親も不安だったろう。「ピー(女郎)にはマイアマイ(売る)はプッシン(ダメ)」と盛んに言っていた。そういうだまして売り飛ばす悪い日本人もいたから、娘は心配で一杯だったろう。M2 

森繁が月給が80円であったとき、3年間の契約金(親に渡す金)が30円というから、今の日本人の感覚では20万円くらいだろう。今だったら、犬を買う程度の値段だ。

13歳の謹スーチンを連れて帰る列車の中では、甘いものが好きだろうと、彼女に用意しておいたキャラメルにも、スーチンは見向きもしなかった。

昭和10年代、修学旅行といえば、日本の女学校では、満州新京(ハルピン)へ行くことが多かった。満鉄の弾丸列車に乗っていくのがはやっていた。その話しをしてくれたのは、(第二)中学校の国語の澤田先生だと思うが、こんな話を語ってくれた。

満鉄の車内で駅弁の食べ、その弁当の木箱を捨てると、満州の子供達が沿線で群がって拾った。底に付いているご飯粒を食べるんだとか。子供達は、乗客がゴミを窓越しに捨てるのを待っているのだ。国民全体が乞食のように見えた。戦後日本と較しつつ、満州の土着の人々の貧しさを語っていた。今も黒龍江省から日本人の花嫁になろうとする人は多い。嫁いだあと、故郷の親にお金を送ってやっている。

M3森繁はスーチンを玄関に入れたが、すぐには上がらせなかった。まず、髪の毛に酢を塗って、タオルで巻き、シラミ退治をした。しばらくしてから、ようやく家に上げ、風呂に入れてやった。彼女は、その日は何も食べずに寝た。数日して、子供達と仲良くなり、家族となじんできた。

三年経って、16歳になり、スーチンが少し女の色香を漂わせるときになって、別れがきた。涙涙で別れたと森繁は書いている。

00006  息子より10数歳ちがっていたという。森繁の68歳の文章で50数歳になっているという。戦争でもう音信不通になり、彼の人生の盛んな頃の思い出であり、スーチンにとってはこの13歳から16歳、生い立ちの中で一つエポックメーキングな出来事であったにちがいない。忘れることはできないだろう。

どんな人生を送ったか、読者の私ですら、謹スーチンに会って聞いてみたい。「森繁自伝」には、満州での終戦時のエピソードが盛り込まれ、最高に面白い。ぜひ一読を勧めたい。

人師は遭い難し、この意味は、この謹スーチンも師であったということ、かな。

人師は遭い難し 森繁久弥  自殺は感謝の挨拶をしてから

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2006年7月 9日 (日)

佐倉連隊にみる戦争の時代 

Sakurae2佐倉連隊にみる戦争の時代歴史博物館の特別展覧会へ出かけた。歴史博物館は佐倉城址にある。ここに旧陸軍の(陸軍歩兵連隊)佐倉連隊があった。

靖国神社の就遊館の展示と似ているが、あれほどの大東亜戦争賛美や日本の正義は主張していない。

従軍日記や生き残った軍人の録画、それらには殺し合いの話が満載、故郷に残した娘に惜別の情溢れた軍事郵便。戦争には、多種な事柄、側面がある、と説明。

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テポドンが飛んでくるような、戦闘の場面になれば、戦うのは当然だし、勝利を求めて犠牲もある。そういうのが戦争である。しかし、戦争は、戦闘だけではない。このことを理解していない人が多いのが気になる。

Sakurae1_1写真は、近衛連隊が佐倉連隊に移ってきたときの様子。迎える兵と比べると、自信にあふれた印象がある。近衛兵は体格がいいものが採用される。近衛兵になると、郷土の誉れと思われたらしい。

憲法9条の擁護をいいながら、戦争をしなければならない時がある。そういう複雑な論理も存在するんだから、どれを支持していいのか、わからなくなる。

内務班の現実、リンチの事実、一方田舎にはないとんかつの食事、それらを総合して、軍隊や訓練はイヤがけど、一生の友ができたり、楽しい思い出ができる。そういう軍隊生活、懐かしがる人もいる。それが連隊写真展の歴史的事実をずらっと見た。

映画「真空地帯」を佐倉に兵舎が残っていたときに、ロケを行ったそうだ。山本薩夫監督が、日本軍隊生活の非人間性をリアルに描き出した作品。出演は木村功 / 下元勉 / 三島雅夫 / 金子信雄 / 花沢徳衛  http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/VIDEO-sinkutitail.html

ロケの後、兵舎の歴史的価値がわからないまま取り壊されたという話で、学芸員もそれを惜しがっていた。案外、こういうコトはわからないものだ。

Sensi0788 佐倉連隊は、最後、グアムやフィリピン・レイテで壊滅した。戊辰戦争、日清・日露、第一次世界大戦、第二次世界大戦を含めて、戦死者57000人。第二次世界大戦では52000人。死者一人に負傷者はその3倍から5倍はいる。戦争とは、そういうものだ。

表の通り、最後、ほとんどがグアムやレイテでの戦闘で殺されたんだ。アメリカとの無茶な戦いをさせた為政者、どちに批判の矢を向けるか、だ。

Red0792 「赤紙」を展示してある前で、杖をついているおじいさんに、「これが赤紙ですか」というと、その人「赤紙を見たことないですか」と、逆に驚かれてしまった。赤紙、当然知っているものというのがその人の常識だった。私が本物を見ているはずがない。

赤紙は、往復はがきのサイズの用紙、それが一銭五厘、というから郵便だと思ったら、役場の人が持ってくるんだと。

おじいさんは、二十歳で徴兵されて山東省から上海に上陸した。内陸に行く。相手は、「国民軍?」「八路軍、ゲリラだった」という。こちらが下がれば、向こうが出てきて、こちらが追いかけると逃げる。そんな戦いだったという。

お爺さん、昔一番元気だったころに戦争漬けだったわけだ。5年間、大陸で戦争の最後のころ戦ったのだろう。今は脚が弱くなって、と一人この連隊展を見にきていた。多分59連隊で出征したのだと思う。

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2006年7月 5日 (水)

ずつ と づつ

Zutu録音起こしの見直し中、上がってきた原稿の中に、「一個づつ」と書いてある。気になる言葉であった。

普段気をつけているが、多数決ではないが、あまりに当たり前に書いてあると、こっちが正しいのではないか、と思ってしまう。

「一個ずつ」と書くのが正しいのだが、発音上では、「一個づつ」と言っても同じだから、他人には気づかれないし指摘されない。

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Zutu1正しい使い方を守っても、それがそのままいつまでもOKのままではない。

とりあえずは、現在では、間違って使っていると、書いたことが立派でも、教養のなさを露呈してしまう。

いやみなるのは承知の上で、間違った言葉遣いは、指摘して、相手に教えた頃があった。親切のつもりだった。車内でタバコを吸っている人に注意するより、勇気は要らない、その程度の意識だった。

私も、よく文字を間違えるし、知らない表現もある。

それを逆に指摘されてみると、意外(このイガイもイガイとよく間違う)と面白くない。たまたま知らないだけで、他のことはオレの方が知っているワイ!と言い返したくなることに気づいた。

一度、誤字ばっかりで文章を書くのも面白いんではないか、と思っている。高校の新聞部にいるとき、旭稜新聞で「ここは読まないで」という記事を書いたら、妙に読まれたことがある。

相手に気分を悪くしないで、教える方法がないものか。録音起こしの作業に関わる人には、言語能力のレベルアップしてほしいと思って、「間違いやすい言葉」というページを作っている。「録音起こしの理念」では、日本語を大切にする人になってもらうことを訴えている。

こういうページを作っていると、まるで私が全能者の立場に立つようで、やりにくいが、まあ、「人には間違いはある」と承知の上で、突貫していくしかないかな、と思っている。

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