大潟(八郎潟)村 戸堀四郎さん
大潟村とは、八郎潟を干拓してできた国策新農村である。そこを最初から出来上がるまでを詳しく写した写真集が「おおがたの記憶」(川辺信康カメラマン)である。大潟村を訪ねると記念品として売っている。昨年訪ねて1年になる。
義父の出身地の(秋田県)中仙町鑓見内から入植した戸堀四郎さんは、昨年で入植35年になり、第一線から引退、老人会会長であった。義父佐々木令蔵に対して、一層の親近感があった。
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昭和41年、第1次入植者募集、定員58名に600人が応募。昭和42年第2次、定員86人に281名応募。昭和43年第3次、定員180人に309人応募。昭和44年第4次、定員150人に389人応募。昭和48年第5次、定員120人に869人応募。合計580戸が入植した。
戸堀さん始め入植者たちは観光用バスを用意して、私たち一行を待っていてくれた。八郎潟干拓地を説明をしてもらいながら巡った。
戸堀さんは70代をこえて、80代に近い感じであった。しかし、気配りが行き届き、体力もある感じであった。一緒に八郎潟を数時間巡ったが、まだまだ見足りた感じはなかった。もう数年後に戸堀さんに会いたいと思って、別れた。
それが、1年に満たない先月、不慮の事故で亡くなったと知らせを受けた。同期入植者の二次会の帰りに自転車もろとも水路に落ちたと聞いた。本日、戸堀さんの息子さんから手紙を貰うと、そうではなく脳幹梗塞で自宅近くの路上で自転車もろとも倒れたのらしい。
息子さんの手紙、父親と義父佐々木令蔵の関係を親しみと敬いの気持ちをこめて書かれ、戸堀家の優しい心を感じる。
戸堀さんとは、同じ大曲農業高校の先輩、後輩の関係で、同じ鑓見内の住まいである。義父は地元の農業高校を出てから満州の大同学院に入って、公務員の道に入ったが、日本の敗戦で、シベリアに抑留され、10年遅れて秋田で再出発の回り道をした。その後、小畑秋田県知事の右腕になって、八郎潟干拓に関わった。
そこで、義父佐々木令蔵の才能と人柄、大きさが遺憾なく発揮されたと思う。
義父は、大潟村内の稲を全部集中するカントリーエレベーターの役員を務めていた。
大潟村が国の管理から自治になる運びのなったとき、最初から苦労をともにしてきた義父は入植者から勧められ、村長選挙に立候補の運びとなった。農業の専門家として、技術と人間的なスケールから、部下や多くの入植者に慕われていた。
村長選挙への出馬は、いろいろ事情が生じて断念することになった。義父はサバサバして未練は残していなかったが、入植者など、義父を慕う若者たちからは、出馬断念を残念がられた。
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