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2006年6月18日 (日)

大潟(八郎潟)村 戸堀四郎さん

Photo 大潟村とは、八郎潟を干拓してできた国策新農村である。そこを最初から出来上がるまでを詳しく写した写真集が「おおがたの記憶」(川辺信康カメラマン)である。大潟村を訪ねると記念品として売っている。昨年訪ねて1年になる

義父の出身地の(秋田県)中仙町鑓見内から入植した戸堀四郎さんは、昨年で入植35年になり、第一線から引退、老人会会長であった。義父佐々木令蔵に対して、一層の親近感があった。

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昭和41年、第1次入植者募集、定員58名に600人が応募。昭和42年第2次、定員86人に281名応募。昭和43年第3次、定員180人に309人応募。昭和44年第4次、定員150人に389人応募。昭和48年第5次、定員120人に869人応募。合計580戸が入植した。

Toborin00471 戸堀さん始め入植者たちは観光用バスを用意して、私たち一行を待っていてくれた。八郎潟干拓地を説明をしてもらいながら巡った。

戸堀さんは70代をこえて、80代に近い感じであった。しかし、気配りが行き届き、体力もある感じであった。一緒に八郎潟を数時間巡ったが、まだまだ見足りた感じはなかった。もう数年後に戸堀さんに会いたいと思って、別れた。Kif_0416_1

それが、1年に満たない先月、不慮の事故で亡くなったと知らせを受けた。同期入植者の二次会の帰りに自転車もろとも水路に落ちたと聞いた。本日、戸堀さんの息子さんから手紙を貰うと、そうではなく脳幹梗塞で自宅近くの路上で自転車もろとも倒れたのらしい。

Kif_0419息子さんの手紙、父親と義父佐々木令蔵の関係を親しみと敬いの気持ちをこめて書かれ、戸堀家の優しい心を感じる。

戸堀さんとは、同じ大曲農業高校の先輩、後輩の関係で、同じ鑓見内の住まいである。義父は地元の農業高校を出てから満州の大同学院に入って、公務員の道に入ったが、日本の敗戦で、シベリアに抑留され、10年遅れて秋田で再出発の回り道をした。その後、小畑秋田県知事の右腕になって、八郎潟干拓に関わった。

そこで、義父佐々木令蔵の才能と人柄、大きさが遺憾なく発揮されたと思う。

Oogata45 義父は、大潟村内の稲を全部集中するカントリーエレベーターの役員を務めていた。

大潟村が国の管理から自治になる運びのなったとき、最初から苦労をともにしてきた義父は入植者から勧められ、村長選挙に立候補の運びとなった。農業の専門家として、技術と人間的なスケールから、部下や多くの入植者に慕われていた。

村長選挙への出馬は、いろいろ事情が生じて断念することになった。義父はサバサバして未練は残していなかったが、入植者など、義父を慕う若者たちからは、出馬断念を残念がられた。

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2006年6月13日 (火)

大隈重信 明治維新前 奥島講演

Images_3 早稲田大学の新入生に対して、校友スポンサーにした「早稲田を知る」という講座がある。愛校心を育てるとか、なんか外野からのヤジがあるようだが、第一回が前総長の奥島さんが、大隈重信の話をしている。以下の文章 録音起こし 

奥島講演参考 奥島講演サンプル

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維新後の明治政府に入って、下野するまでは知られているが、佐賀にいるとき何をしたか、どうして明治政府に入ったか、このあたりは知られていない。そこを奥島さんが語っていた。

維新の時には、大隈さんは長崎で英学塾の致遠館という、学校を作っていた。この藩校を大隈さんと副島種臣、この2人が中心になって、そしてフルベッキという、布教のためにやって来たキリスト教の牧師さんを雇い、致遠館という英学塾を作った。

 当時、大隈さんは、そういうわけで、英学塾の先生をしていた。明治維新で長崎にいた幕府官僚たちが全部江戸に引き上げてしまって、困ったのは、どうやって対応していくかということで、そこに残っていた連中が、▲サワショウという東京から送られてきた人が「大隈、やれ」とこういうふうに言った。

長崎にあるいろいろな藩の出先機関を取り仕切ってやっているうちに、新政府が大隈さんを長崎判事に任命します。そして、さまざまな難しい問題を実に快刀乱麻に、大隈さんは捌いていった。そういう大隈さんの名前が、次第に中央官庁に知られるようになった。

 明治維新の時に、外国のことを知っている人というのは極めて少なかった。外国のことを知っていても、どう対処していいか、分からない人たちがほとんどだった。そういう中で、大隈さんは一頭地を抜きん出た。

 西郷隆盛を頂点とする維新政府は、外国との交渉で大変いろんなことで苦しんでいた。とりわけ苦しんだのは、浦上天主堂事件、長崎の隠れキリシタンを牢屋に放り込んでいた。当時、78人ぐらいの人が牢屋に放り込まれた。

イギリスとか、外国の連中は、キリスト者であるということで牢屋に放り込むとは何事だ。これを解放せよ、というふうに言った。政府は方針が決まっていないからどうしていいか分からない。

 そこで急遽、大隈さんを呼び出した。そして、大阪の東本願寺別院というところで、パークスを中心とする外国、この外交使節団と、向こうは10数人、それと大隈さんが向き合ってこの問題について議論を始めた。

その時に、なんと6時間、6時間激論をした上で、とうとう大隈さんが言う。「この問題は国内問題である。国際問題ではない」と。日本の国が独自に判断する問題であって、要するに、外国が口を出すような問題ではないということでもって、パークスのその抗議を一蹴した。

 さあ、これが評判になった。こういう優れた人物がいるのだったら、長崎になんか置いておくわけにはいかんということで、急遽大隈さんは、明治元年、東京へ呼び出される。

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2006年6月11日 (日)

時は今 雨が下知る 皐月かな

時は今 雨が下知る 皐月かな 明智光秀の句である。

明智光秀の決起は、間違っていたのか、いわゆる「※加藤の乱」といわれる加藤紘一氏が総裁候補として立候補したのと、似てないか。足元を固めないで見切り発車したのに似ている。光秀が信長を本能寺で殺したのは、旧勢力側の望んでいたことだから、革新破壊が一旦止まったのだから、喜んでいる人がいるはず。

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加藤の乱(かとうのらん)は、平成12年(2000年)に第2次森喜朗内閣打倒を目指して与党自由民主党加藤紘一山崎拓らが起こした一連の政治行動。別名は加藤政変・YK革命。党幹事長野中広務による党内引き締めにより、加藤の意図は失敗した。

 だから、その勢力を結集できなかった明智光秀の戦略ミスである。参謀がいなかったのは、最大の失敗だろう。黒田官兵衛、竹中半兵衛の知将が一人でもいたら、随分違っていたはずだ。V12 

明智町は、私の生まれた町中津川市から恵那市で乗り換え、明智線で30分。二三十キロの近さにある町だある。戦国の時代末期は、美濃地方は注目の場所だった。

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2006年6月 9日 (金)

黒田官兵衛 

Wtbook1 高橋和島のこの作品を読んだら、もう葛飾区の図書館には蔵書がない。最近知った著者だが、歴史的事実をよく知っているし、調べている。人物の言動、時代の動き、政治的な動向も、大人が読んでも耐えられるだけの中身が書けるようだ。

歴史的なものは変わらないから、読者がすでに知っている内容を飽かさず読ませるだけの小説の構想、筋書き、この点がすぐれている。

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あとは、女性を上手にちりばめて、飽きさせない。文章も難しくない。「童」の付く作家より、名前は知られていないが、売れていい作家だ。

Wtbook 岐阜県土岐市の市のイベントとして、著作を依頼した作品。そんな注文の仕方は始めてだ。

陶磁器と茶道に詳しい秀吉側近の武将織部である。それほど歴史に名を残した人ではないので、興味が薄くなりがちの人物を歴史上の動き、秀吉周辺の人物と絡めて、飽きないストーリーに仕上げる力量は感心する。

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