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2006年5月18日 (木)

植田重雄早大名誉教授 訃報

Uedapr21Tokyo1 植田重雄早大名誉教授の死亡記事が(毎日新聞)載っている。

先生の話は、昭和35年早稲田祭のとき、大隈小講堂で始めて聞いた。先生几帳面にノートに沿って話をされた。同時に話をされた高木幹太牧師(北千住教会)は原稿も見ない奔放な講演で面白かった。それがきっかけで、早稲田奉仕園へ行き、入会手続きをした。キルケゴール「死に至る病」金曜読書会に出て、それから早稲田奉仕園の活動にも数々参加した。

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Workcamp 奉仕園の縁で、その年の八月、宮城県利府の日本キリスト教団のワークキャンプに行った。2年の夏休み10日間、今でいうNPO活動である。そのとき、同行する植田先生も上野から仙台まで列車内で一緒だった。ひざを交えて話をすると、教授も人の子、癖や趣味がわかる。人間科学部の木村利人教授が大学院生で、兄貴分として参加していた。

Housirifu 始めて、高校生までは全然縁のなかったキリスト教の世界に入り込んだ感じだった。多くの学生は幼いときからキリスト教に馴染んでいたのか、歌も雰囲気にも慣れているようだった。キリスト教信者の中で賛美歌を歌ったり、食事前に祈ったり、ゲームをしたりした。

拙者の刀はさび刀、貴殿の頭ははげ頭」とか「プクの修行」といって、プクプク・・と相手を笑わせるゲームなど、じつにいろいろ遊びを教わった。実は、あのプクの修行で「プクプク・・・」と言っても、笑えないかったのには、困った。なにがおかしいんだ?といいう気分があったが、適当なところで笑っていないと、アメリカのクリスチャンの遊びの輪に入れないので、笑った部分もあった。こんなアメリカ的な生活は始めてだった。

仕事は、笹や潅木の原野を開墾して日本キリスト教団のキャンプ場を作る仕事だった。今は相当立派な施設になっているらしいが、建設途上も初期だから、バラックが数戸建っているだけだった。

「いつくしみ深き 友なるイエスは 罪とが憂いに・・・」と、歌い、最後に「アーメン」と、作業が終わると、みんなそれが当然のように一週間過ごした。

3年で人文科学「宗教学」で植田重雄先生が担任だった。先生の課外授業は、思い出が深い。それが単位と関連してはいないが、ワークキャンプ以来の知り合いの先生だから、私がサボるわけにはいかない。そんなわけで、先生の課外授業は全部出た。

Uedapr22 鎌倉、大谷石の観音像、成田の石棺発掘など行った。成田は行かされた感じではあったが、いい思い出になった。

鎌倉の課外授業は多くの人が参加した。先生は「早稲田大学教授」の名刺を有効に使って、普段は撮影できない仏像を写真をジャンジャン撮った。Uedapr31

大谷石の観音像を見に行ったときは、聴講生の年上の女性がいたり、早稲田OBの日経新聞の記者なども同行していた。

突然先生から電話がかかってきて、成田の古墳発掘に行くから友達を連れて集まれ、と指示があった。私はT君を誘って先生と落ち合って日暮里から京成電車に乗った。そのとき、はじめて京成電車に乗り、町屋あたりで、あれがオバケ煙突だと言うのを見た。3本の煙突が2本になり、一本になり、また3本になる、先生に説明を聞いた。

すでに成田の古墳は発掘作業は始まっていた。私達は作業手伝いで、トレンチといって、試掘の溝掘り作業に狩り出されたのだった。

石棺が出てきて、千年以上空気に触れていないからと、蓋を開けることになった。中から出てきた青銅の刀、宝飾品はさびていたが、光っていたものも、空気に触れて数時間で変色していった。

夜、夕食後、私達植田先生と私とT君、みんなから余興を求められて、T君はグリークラブのテナーだから、堂々と一曲、披露した。イタリア、ナポリ民謡、オソレミヨだったか、あれは誰でも知っている曲だが、原語で歌ったらシーンと、みんな聞きほれていたのを思い出す。

Uedapr4 春休み、神戸出身の宮崎洋子さんが「先生、関西へ旅行しませんか。連絡くれたら、案内します」というから、「君、計画して」とオレに投げかけられて、困った。計画を作れと言われても、どこに泊まるか、どこへ行けばいいのか、費用はどうするか。入学以来の最大の危機だった。

先生宅まで行って相談してみたが、どうも計画が先に進まない。春休みのシ-ズンが過ぎて、ついに企画は実行できなかった。あれが実行できたら、先生の評価も変わっていただろうが、あれは大失敗だった。

卒業以後、先生とはご縁がなくなってしまい、本日先生の訃報を拝見し、謹んで、お悔やみ申し上げます。

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コメント

私は植田先生のリーメンシュナイダーについてのご本に大変感動しただけでなく、お人柄にとても惹かれました。2006年にご召天されたと知って寂しくなりました。私は1967年に早大教育学部を卒業しましたが(旧姓小林)、当時植田先生を全く存じ上げず、惜しいことをいたしました。実は友人がリーメンシュナイダーの研究をしており、植田先生がお持ちのリーメンシュナイダーに関する資料などを拝見させていただく機会を願っております。
 この件で、ご子息様にご連絡を差し上げることが許されるのでしたらありがたいのですが。ご子息様のご連絡先をお教えいただけますなら幸いです。

野村様
 昭和37年3月11日(日)確か植田先生宅まで訪ね、住所は世田谷区等々力だったのは覚えていますが、正確先生のご住所、電話がどこかに書いてあるかと思って探したのですが、残念ながら発見できませんでした。発見したら、お知らせします。
 私は、早稲田奉仕園に所属していたので先生と知り合い、授業の宗教学で会う機会が多かったのだと思います。

投稿: 野村和子 | 2015年6月 2日 (火) 11時13分

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