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2006年5月23日 (火)

古い家(川越)写真集

Kmap川越市内をバスが回っている。

1日乗車券500円、一回170円。駅前から乗ると、結構混んでいた。味のあるバスだが、狭い道路が多いので、小型のようだ。但し、1時間に3回程度の巡回。町を見るなら、歩く方が楽しい。Bus63

Akhouse2なぜ古い町並みが残っているのか、よくわからない。

と、いうより、蔵が多いのは、川越で大火が続いたから、火から家財を守るという知恵から蔵が多くなったのだという。

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田舎(中津川市)にも、中仙道の宿場町だから、びっくりするような古い家がある。蔵があるのは、財産を火と泥棒から守るためだったようだ。

Akie72蔵が多いのは、明治以前には、タバコの集荷が集まっていたのらしい。現代でいえば、宅急便の集荷センターがここにあったということだろう。

なぜ、古い物を大切にするか。興味ない人がいても仕方がないが、古いものの中に、学ぶべき知恵を見出す楽しみがそこにあるからだろう。

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2006年5月19日 (金)

早稲田奉仕園 昭和,35年頃

昨日のブログで  高木幹太牧師(北千住教会)は原稿も見ない奔放な講演で面白かった。それがきっかけで、キルケゴール「死に至る病」金曜読書会に出て、それから早稲田奉仕園の活動に参加した。 と書いた。

Housien1 早稲田奉仕園の煉瓦造りの地下食堂は、ポタージュスープをはじめてとして、田舎から出てきた私には、おしゃれな雰囲気だった。昭和30年代、とてもシックでモダンだった。

最近数年前、早稲田教会で甥の結婚式に行ったついでに隣の建物、奉仕園を見たら、まったく建物は変わっていなかった。奉仕園と早稲田教会は一体だったが、教会は結婚式を取り込んでモダンな建物になっていた。

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Tokyo_1 早稲田祭の講演以後、毎週金曜日、高木幹太先生の読書会に奉仕園へ出かけた。

今ノートを見つけて読むと、難しいことを聞いていたのだと思う。特に、西洋思想、キリスト教の考え方は、肉体と霊(思考)の分離という点が、新鮮ではあった。普段意識していない問題だったが、すでに子供の頃からクリスチャン家庭で育っている人、あるいは感覚の鋭い人は当然の認識だったように見えた。

キリスト教の論理の構成に慣れない私には、難しかった。キリスト教の修養会などで討論すると、こういうことがよくわかっている人が多いのには驚きだった。

Friday 金曜日だけでなく、奉仕園に行くのは、全体行事である「修養会(リトリート)」と称するブレイントレーニング(頭をキリスト教の考えにする)だった。宗教はどれでも似た面があると思うが、信じると、信じないの間に溝があると言うことだ。ここを飛び越さないと、結局クリスチャンになれない。

Houshien2  しかし、奉仕活動はクリスチャンであろうと、なかろうと関係ないから、かなり一生懸命やったし、得るものもたくさんあった。早稲田奉仕園会長は安達さん、政経の3年生で、スピーチを英語でやるし、統治力もあった。

Ymca21 立派な建物が建設中だった。そこが学生寮であると知って、応募した,

選考責任者の植松教授と安達さんは知り合いで、研究室に遊びに行ったついでに応募者一覧を見て、この人は奉仕園で活躍しているから、と彼の推薦があって、この学生寮(早稲田YMCA会館)に入った。これは、後から聞いた話。

ちょうど、仙台利府のワークキャンプを経験したあとだったので、この寮にはいっても違和感はなかった。

神はどこにいるか。学生寮(早稲田YMCA会館)で話し合った。良心の呵責、そういった中に感じるものが、神の存在だ、というのが論理的に一番近い。そういうことであるが、そこを人格的な(イエス)姿で把握できないと、それは洗礼を受けられないし、神は信じられない。

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2006年5月18日 (木)

植田重雄早大名誉教授 訃報

Uedapr21Tokyo1 植田重雄早大名誉教授の死亡記事が(毎日新聞)載っている。

先生の話は、昭和35年早稲田祭のとき、大隈小講堂で始めて聞いた。先生几帳面にノートに沿って話をされた。同時に話をされた高木幹太牧師(北千住教会)は原稿も見ない奔放な講演で面白かった。それがきっかけで、早稲田奉仕園へ行き、入会手続きをした。キルケゴール「死に至る病」金曜読書会に出て、それから早稲田奉仕園の活動にも数々参加した。

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Workcamp 奉仕園の縁で、その年の八月、宮城県利府の日本キリスト教団のワークキャンプに行った。2年の夏休み10日間、今でいうNPO活動である。そのとき、同行する植田先生も上野から仙台まで列車内で一緒だった。ひざを交えて話をすると、教授も人の子、癖や趣味がわかる。人間科学部の木村利人教授が大学院生で、兄貴分として参加していた。

Housirifu 始めて、高校生までは全然縁のなかったキリスト教の世界に入り込んだ感じだった。多くの学生は幼いときからキリスト教に馴染んでいたのか、歌も雰囲気にも慣れているようだった。キリスト教信者の中で賛美歌を歌ったり、食事前に祈ったり、ゲームをしたりした。

拙者の刀はさび刀、貴殿の頭ははげ頭」とか「プクの修行」といって、プクプク・・と相手を笑わせるゲームなど、じつにいろいろ遊びを教わった。実は、あのプクの修行で「プクプク・・・」と言っても、笑えないかったのには、困った。なにがおかしいんだ?といいう気分があったが、適当なところで笑っていないと、アメリカのクリスチャンの遊びの輪に入れないので、笑った部分もあった。こんなアメリカ的な生活は始めてだった。

仕事は、笹や潅木の原野を開墾して日本キリスト教団のキャンプ場を作る仕事だった。今は相当立派な施設になっているらしいが、建設途上も初期だから、バラックが数戸建っているだけだった。

「いつくしみ深き 友なるイエスは 罪とが憂いに・・・」と、歌い、最後に「アーメン」と、作業が終わると、みんなそれが当然のように一週間過ごした。

3年で人文科学「宗教学」で植田重雄先生が担任だった。先生の課外授業は、思い出が深い。それが単位と関連してはいないが、ワークキャンプ以来の知り合いの先生だから、私がサボるわけにはいかない。そんなわけで、先生の課外授業は全部出た。

Uedapr22 鎌倉、大谷石の観音像、成田の石棺発掘など行った。成田は行かされた感じではあったが、いい思い出になった。

鎌倉の課外授業は多くの人が参加した。先生は「早稲田大学教授」の名刺を有効に使って、普段は撮影できない仏像を写真をジャンジャン撮った。Uedapr31

大谷石の観音像を見に行ったときは、聴講生の年上の女性がいたり、早稲田OBの日経新聞の記者なども同行していた。

突然先生から電話がかかってきて、成田の古墳発掘に行くから友達を連れて集まれ、と指示があった。私はT君を誘って先生と落ち合って日暮里から京成電車に乗った。そのとき、はじめて京成電車に乗り、町屋あたりで、あれがオバケ煙突だと言うのを見た。3本の煙突が2本になり、一本になり、また3本になる、先生に説明を聞いた。

すでに成田の古墳は発掘作業は始まっていた。私達は作業手伝いで、トレンチといって、試掘の溝掘り作業に狩り出されたのだった。

石棺が出てきて、千年以上空気に触れていないからと、蓋を開けることになった。中から出てきた青銅の刀、宝飾品はさびていたが、光っていたものも、空気に触れて数時間で変色していった。

夜、夕食後、私達植田先生と私とT君、みんなから余興を求められて、T君はグリークラブのテナーだから、堂々と一曲、披露した。イタリア、ナポリ民謡、オソレミヨだったか、あれは誰でも知っている曲だが、原語で歌ったらシーンと、みんな聞きほれていたのを思い出す。

Uedapr4 春休み、神戸出身の宮崎洋子さんが「先生、関西へ旅行しませんか。連絡くれたら、案内します」というから、「君、計画して」とオレに投げかけられて、困った。計画を作れと言われても、どこに泊まるか、どこへ行けばいいのか、費用はどうするか。入学以来の最大の危機だった。

先生宅まで行って相談してみたが、どうも計画が先に進まない。春休みのシ-ズンが過ぎて、ついに企画は実行できなかった。あれが実行できたら、先生の評価も変わっていただろうが、あれは大失敗だった。

卒業以後、先生とはご縁がなくなってしまい、本日先生の訃報を拝見し、謹んで、お悔やみ申し上げます。

早稲田マンのホームカミングDay  早稲田でどう学ぶか 単位の取り方  早稲田信愛学舎 喧々がくがく 早稲田奉仕園 昭和,35年頃 早稲田同窓(関東東京)の集い 成の突破力 早稲田スペシャル 大地の記録 早川巳代治と有島武郎  早稲田大学 早川巳代治ゼミ 

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2006年5月17日 (水)

三遊亭 圓楽 引退73歳

0319go02 五代目三遊亭 圓楽1933年(昭和8年)1月3日 - )は、東京都台東区の生まれで家は日照山不退寺易行院(通称助六寺)。本名、吉河 寛海(よしかわ ひろうみ)。血液型はAB型。なお鳥取城攻防戦で有名な吉川経家の末裔を自称している。

若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、端整な顔立ちと博識振りで1960年代の演芸ブームの際脚光を浴びた。7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(もしくは8代目橘家圓蔵)と共に「四天王」と呼ばれた。以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』.

実家が浅草に近いお寺だったので、戦争中、お寺が空襲で焼けて、墓を移動することになり、10代の円楽は、江戸時代の遊女やおいらんの墓から頭蓋骨を取り出し、きれいに磨いて新しい墓に移した経験を持つ。

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昔は、火葬しなかったからそのまま埋めてあるから、骨になって残る。女郎屋が多く、寺ではそういう田舎から売られて出てきた女の子が病気で死ぬのだろう。江戸時代、ふりそで火事?浅草の火事の時も、置屋が女たちが逃げないようにしたから、多くの女性が死んだ。

昼の情報番組でカントクと呼ばれる 山本晋也氏が円楽師匠にインタビューしていた。その遊女の頭蓋骨を磨いた経験から、円楽の死生観ができたんだと、彼が解説していた。

脳梗塞で死に掛かったとき、自分ではそう切迫感はなかったという。死ぬときは、来し方行く末が走馬灯のようにめぐるというが、そんなことはなかった。ただやたらに眠くて、眠かった。周りの看護師さんたちが走り回っているのが聞こえていたという。

目が覚めて、「どうしたんだ」と聞いたら、死に掛かったんだと言われた。そんなことを円楽は言った。

私は、来し方行く末が走馬灯のようにめぐる経験は、一度ある。中三のとき、夏休み兄貴の赴任地青森へ行き、田舎の診療所だったが、そこで手術の麻酔をかけてもらった時のことだ。半分眠った状態であるが、意識は半分ある。そのとき、中学の先生の顔や、クラスの友達の顔が浮かんだ。そして、小さい時に遊んだことなど、次々浮かんでは消えていくシーンが頭の中をめぐった。

0423go01 「笑点」を降りて、がっくり老けたね。確か、口が回らなくなって、痛々しい。死にそこないと自嘲していた。みんなそんなことはないから、これからも高座に上がって語ってくださいというが、やはり、むりだろう。脳梗塞は怖いね。彼は血圧が低い方で脳梗塞になっているようだ。司会の円楽がやめたが、コンペイ(新潟出身)でーす!と元気のよかった、三平一番弟子だった彼も出られなくなった。長寿番組は、出演者が倒れてしまうんだね。

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2006年5月 8日 (月)

お菓子の町 佐和屋「からすみ」中津川市

中津の町を歩いていると、老舗のお菓子やがあちこちにある。「すや」「川上屋」「新杵堂」「信玄堂」など、粋を研究した高価な和菓子職人の店が発展している。

何でそんなに高価な和菓子が売れるの?と疑問を持つほどである。私は佐和屋の「からすみ」が好きで中津にきたらお土産に買うことにしている。

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Kif_3474 「からすみ」というと魚からとるものが知られているが、中津周辺独特の和菓子。

昔は、各家庭でコメの粉を練って富士山の型にはめて蒸かして作った。五平もちと「からすみ」は、両方ともコメでつくるイベント用家庭のごちそうだった。

今は専門の店が作っている。「からすみ」は黒砂糖、クルミ、蓬よもぎなどが入ったバラエティがとんだお菓子になっている。口当たりは名古屋名物「ういろ」に近い。

佐和屋との縁は、昔ウチの母が病気で寝ているとき、ここのおばあさんが付き添ってくれたことから、ずーっと知り合いだ。その娘がおばあさんになるほど古い。店に出ているの人が姉と同級。

Kif_3472_1Kif_3473ここ佐和屋は店構えは小さいし、商品が多く置いてはないが、支店がかなり大きいと聞いている。本店が休業の時は支店に行くようになっている。

川上屋、すやのように派手な宣伝やマスコミに載ることはないが、日持ちのしない商品を短期で売り切る商法で信用を得ているように見える。

 からすみの製造方法
 業者や家庭によって多少異なるが、主原材料は、
米粉、上白糖であり、ほかに、風味に変化をもたせるための素材としてヨモギ、クルミ、黒糖
等が用いられる。
 製造工程
(1) 約4リットルの熱湯に上白糖(3.75kg)を加えて軽く沸騰させ、柄杓 (ひしゃく) であくを取る。
(2) 米粉(3.75kg)を加えてへらで練り、タネを作る。
上白糖と米粉の量は等量。熱湯の量は季節に応じて調節。
(3) 布巾を敷いて蒸し器で
タネを30分間一回目蒸す。蒸しあがったタネにヨモギ等を加えるなど、バラエティのある種類を考え、機械で練る。
(4) ぬれ布巾を敷き、300g のからすみのタネを木型に入れて形を整え、さらに経木を敷いておく。
(5) 再度蒸し器で30分間、二回目蒸し上がったら、からすみを裏返して型から抜き出して粗熱を取り、十分に冷ます。
 ようかんのように切ってそのまま食べるのが、からすみの一般的な食べ方だが、焼いて食べるのもまた一興である。

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お菓子の町中津川市  本町界隈  間家大正蔵  中川 鮮さん 前中津川市長  玉蔵橋(木曽川  全国夫婦岩1位 春うらら 雑談、ムダ話の効用  冬、来りなば 楽しめる方言集  「みかんの花咲く丘」が歌われた頃    歴史の町中津川市 

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2006年5月 7日 (日)

本町界隈 中津川市

Honmachi3467_2Honmachi3470写真は本町    本町二丁目は、曾我宅(旧肥田庄屋)前から十一屋(昔の宿屋)までの範囲が、子供だった私たちのエリアだった。

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曾我さま(旧肥田庄屋)(「さま」と呼んだ)の家の中は共同炊事場があって、長屋ではないが何所帯か住んでいた。(曾我家と肥田家との関係は不明) 曾我家は本町のかなり地域の地主であった。

Niwa3469 (左写真、肥田庄屋の庭中)本町の左側、曾我家の隣は林さん。その隣が西陶園、小道をはさんで大鋸酒店、佐々木、可知、吉田、内木(昭和27頃まで小栗)、内木、近藤(昭和27頃まで松村)、田口(十一屋、安保郁夫先生が下宿していた

向かい側の本町は、工藤下駄屋、成瀬(店子:安藤ラジオ/鳥十)、駄菓子屋、則武、加藤ポンプ(店子:西尾パン屋)、小池魚店(魚常)、渡辺サンセイ舎、岩田歯科院、(蔵前町への道)、鷲見、野沢江戸時代、馬宿、恵那精麦、川が流れている。

Child3464 子供時代の遊び場は、大鋸酒店と西陶園の間を入った細道にあった。裏の畑があり、遊ぶ場所があった。そこには、西陶園の池の周りを抜けて、林さんの裏へ出て畑に行く道があった。

西陶園の池の周りは私有地だから、子供が出入りするのは迷惑だった。そこで、扉をつけて通れなくした。ケチだと思ったが、昭和28年にはもう裏の畑には行けなくなった。

Child3461竪清水町のカネケの横細道から入って行くと、60年前と全く同じで、左側に長屋がある。ここに松本兼好君が住んでいた。

 長屋の中央に通り抜ける空間(写真)がある。他人の家をとおり抜ける感じだが、そこを抜けると大山文具店裏の駐車場と合流する。

 そこから、代田さん宅裏と林家裏が一緒になった所が駐車場のフェンスの出入り口になる。

Child3465そこから、昔の小道を写真に撮った。子供の頃に閉鎖されて以来、裏の畑の変化を知らないで過ぎた。50年ぶりにその道を見た。

ここに茶畑があって、この石垣のすき間に宝を隠したら、大鋸君の弟のトモくんに見つけられて、取られてしまった思い出がある。そんな記憶を辿ったが、地形がかなり変った。

Diary52529_1 昭和26年5月、ここの石垣に宝物を隠したという証拠の記録が出てきた。

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2006年5月 4日 (木)

中川 鮮さん 前中津川市長

Ochiai3371 玉蔵橋を対岸から見ながらドライブすると、落合ダムが左手に見えてきた.。中津川100景に数えてもいいと思う。

左に落合ダム、正面には恵那山の威容が迫ってくる。恵那山もダムも、写真を撮るには、これは絶好のポイントだ。しばらく、ここで写真を撮っていた。

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どこかで見た顔の人がカメラの三脚を担いで近づいてきた。同行していた友人が「市長の中川さんだ」と気づいた。そう、前市長の中川鮮さんだった.。そこで、市民派市長と挨拶をしてからしばらく立ち話をした.。

公人の顔ではなく、一人のカメラマンの顔だった.。初めて会ったのは「七夕トーク」のときだったが、あれから16年くらい経つ。市長になるとは思わなかったが、鉈のような切れ味の舌鋒で市の方向を追求した。そんな記憶がある.

Myaor3378 不意に会った前市長に聞くつもりではなかったが、彼の政治姿勢を応援したいと思っている一人として、市長をしていて何が問題だったか、ザックバランに話を聞いてみた.。

 最近、良識のある長老議員が引退して、討論や市政が進まなくなっている点を指摘された。与党にも野党にも議会の良識ある議員がいたが、そういう議員がいないらしい。かつては裏で暗躍しても、市議会の場では良識をもっていたと言う.。最近の議員は幼児化したということだろうか.。

 .「日が落ちると、写真が取れなくなるので」と中川さんは去って行ったが、市長選挙に担いだ市民運動の人たち、とても熱心ではある.理想に燃えて運動されてはいても、市民の一部に過ぎない.。市全体へのうねりにならない。それはなぜだろう.。

もともと、中津の町は、新規なことにとびつく土地の進歩的な風潮がある.。維新の頃の動きもそうだし、市岡市長のあと、竹村市長になったときも、中津川市(国鉄機関区)から楯兼次郎が36歳で衆議院議員に当選。中選挙区(岐阜2区)の中で3位か4位当選していた。最後は国会対策委員長で引退するまで数十年、一度も落選しなかったのは、幸運だった。町の中には「楯兼次郎とうちのトウチャン、同級生だった」という人がいた。「カレよりウチの方が成績よかった」という話も聞いたことがある。楯兼次郎、講演会では、声が大きく、割舌のいい話ぶりで、中津の町は社会党支持者が多かった。

Mayer 中川さんが市長になったのは、市民運動から始まって当選したが、民主党の菅直人の政治手法に似ている。この生活草の根の運動で立派なんだけど、日本社会では広がらない。自然とか、エコに目覚めた人が頑張って広がっているが、市民の移り気、コレを止めておく知恵がない。そこに中川さんの二期目の落選につながる何かがある.。

Mayer2 民主党の若さ、クリーンイメージ、いいのだけれど、豪腕さが欠ける。小沢一郎的手段があるといいのではないか.。労働組合や中小企業の経営者、多少の保守的な支持基盤に食い込む必要ある。純化路線は、この際封印して、多数派工作する方が、私はいいと思う。

ただ、今は市民運動家が中川さんの支持基盤中心だから、この雑多集団を取り込むのは内輪もめの原因になるかもしれない.。それをまとめる黒幕的な参謀が、中川さんには必要だろう。

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