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2006年1月 5日 (木)

冬、来りなば

雪が異常に降って、新潟は雪下ろしが大変だ、とテレビは報道している。11月12日に新幹線で越後湯沢に降りたら、新潟の晩秋 、すぐそこに冬が忍び寄っているという印象だった。山の店は来週閉めて、頑丈に来春までは誰も中に入れないように囲う、と店の人は言っていた。囲って来春まで人が近づかないという。この雪国の習慣を知らないと、その気持ちがいまいち解りにくい。

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上杉謙信にしても、柴田勝家にしても、雪のある間は戦いできなかった。事実、今年の積雪のように数メートルも積もっては、除雪車がない時代、動きが取れなかっただろう。田中角栄も雪国の不便さはよく知っていた。

積雪の多い地方は、雪のない地方に暮らしたいと願う心が、エネルギーになっている。冬も雪が積もらないところに暮らす人には、きっとその雪の降り込められている人の心が分からないだろう。

zenkei (←小室昭さんのHP 洋さんの兄)私が18歳まで過ごしたところは、岐阜の山中ではあっても、街中だったから積雪の恐ろしさは知らない。雪が積もれば喜んでいた。町の中に雪が積もると、雪が不思議な消音の効果があるので、特に夜は別世界が展開された感じになる。

町を見下ろす恵那山に初雪が降ると、中津の町は冬がきたと思う。なにかにつけ、この山が人々の生活を支配している。一月なかばには山全体が真っ白となる。春になると雪が徐々になくなっていく。中津川市は山に囲まれ、ナベ底状になっており、雪は多くは積もらないが寒い。冷え冷えとした空気にさらされる。

寒さの厳しい根ノ上高原の保古沼は厚い氷が張り、スケートが盛んだった。新聞にスキー場の積雪と同時にスケート場の氷の厚さが載っていた。氷の厚さが5cmになると、スケート可、とされた。

冬の保古沼は賑わい、氷の上には500mリンクが作られていた。そこを腰に片手をおいて前傾姿勢で何十人、数百人が回っていた。リンク外には多くのギャラリーが取り巻いて眺めていた。昭和26年、27年ころ、冬の娯楽はスケートだ。春のつつじの咲く頃と同じ位にぎやかだった。

保古沼でスケートリンクの周りに群衆が見ていると、氷が重さに耐えきれずミシミシと割れる音がする。慌てて人々は逃げ出す。慣れていると、人々が逃げてくれると思って自分は逃げないと、遭難する。ということがあると脅されていた。

兄のお供でスケートに行ったことがある。群集の中に混じってリンクをスケートをしている友達がいた。都会から引っ越してきた菅井君だった。小柄な少年だったが、皮靴のロングスケートを履いてスーッと滑って、私の前でニッと笑って過ぎて行った。中学になると、彼はどこかへ行っていなくなった。親の転勤で来て、またどこかへ行ってしまったのだろう。

Geta_skate 当時の大抵の少年は下駄スケートだった。下駄にスケートの刃が据えられ、足袋を履いて足が脱げないように紐で縛った。私のスケートは靴の下に金具で固定する当時のローラースケートと同じ形式だった。

社会人で22歳の兄貴はフィギヤーのスケート靴を買った。畳の上で履いてターンの練習をしていた。おしゃれなことをしたがる人で、スピードスケートで走り回るより、女の子を誘うのつもりだったか、スピードスケートは買わなかった。

私はローラースケートもやったが、スケートにも興味を持った。桃山の弘法大師の裏にあった小さな池、ここに氷が張ってスケートに行った。割烹旅館一岳や長多喜へ行く途中にあったが、今は埋め立てられて跡形もない。小学6年生4人、大村和行、横井正毅、田中亮治と私で滑った記憶がある。後に横井は明治大学のスケート部に入った。500メートルを50秒以下で滑ると、合格するという話だった。

温度が10度を割るとストーブを焚くこのになっていた。親指が飛び出すような足袋を履いていた子供は案外寒がりだった。

S22マキストーブに一日マキは一束だったから、4時間目にはもうなくなってしまった。校舎に沿ってマキが並べてある(写真参照)。二階からカギをつけた紐を垂らしてマキを吊り上げる悪童がいた。

南小学校昭和22年当時、加藤とき先生。本をよく読んでくれた。ジャンバルジャン(ああ無常)など

そういうワルも今ではいい思い出になった。ストーブの上に弁当を置いて、食べるときに温かいように暖めていた。ところが、4時間目には、弁当の中にある沢庵が匂いがプンプンする。 弁当保温気のできる前の様子だ。

お菓子の町中津川市  本町界隈  間家大正蔵  中川 鮮さん 前中津川市長  玉蔵橋(木曽川  全国夫婦岩1位 春うらら 雑談、ムダ話の効用  冬、来りなば 楽しめる方言集  「みかんの花咲く丘」が歌われた頃    歴史の町中津川市 

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コメント

 中津川在住の大塚と申します。

 中津川は今でも結構寒いです。先日は夜明け前にマイナス10度ほどを示していました。(中津川市茄子川にて)
 でも、nozawaさんがお過ごしになったころはもっと寒かったのでしょうね。

 今では「根ノ上高原でスケート」は遠い昔のお話のようになってしまいました。私(現在45歳です)の記憶では、20年ほど前までは氷上のワカサギつりが楽しめたのですが、このところ、湖の氷の上に乗れる状態にはならないようです。

 でも、いつまでたっても恵那山は私たちのシンボルであり、「見ていると心安らぐもの」です。

 これからも中津川をよろしくお願いいたします。

投稿: おおつかけんじ | 2006年1月 6日 (金) 23時26分

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