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2006年1月29日 (日)

「みかんの花咲く丘」が歌われた頃

里の秋   みかんの花咲く丘 (クリックして口ずさんでください)里の秋足ふみオルガンみかんの花の咲く丘ピアノで、どちらも郷愁を誘う童謡だ。みかんの花咲く丘(解説) とんがり帽子(川田正子) みどりの丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 川田正子の声が残っている。 参照みかんの花が咲く丘

4kawada この歌を歌っていた川田正子が亡くなったという投書を見た。71歳、ちょっと早い。しっかり者、お姉さん歌手であった。 

童謡歌手として、松島とも子が(岐阜県)中津にきたとき、たらいで水遊びしている写真が、太田町の吉野肉屋隣の写真館に長く飾ってあったのを覚えている。今はみんなおばあちゃんになっているが、あの頃は童謡歌手が花盛りだった。今では、童謡歌うのは、安田姉妹だけじゃないか。

Kif_7325 みかんの花 湯河原駅にあったタイル絵 日本がポツダム宣言を受諾し降伏した昭和20年暮れのNHKラジオは,戦地から日本に帰国=当時の用語では復員してくる将兵を励ますために「外地引揚同胞激励の午后」を放送しました。昭和20年12月24日午後1時45分のことです。
「音羽ゆりかご会」の童謡歌手川田正子さんが,番組のなかで新曲を歌います.戦災の焼け跡に,家代わりの防空壕に,闇市の雑踏にそのメロディが流れました。
可憐な少女の優しく澄んだ静かな歌声にたくさんの人々が思わず聴きいり、そして熱い共感に心満たされます。歌い終わるやNHKの電話は鳴り続け「いい曲だった」「もう一度歌ってほしい」というリクエストが殺到しました。「番組中にもう一度歌ったような気がします」と、川田正子さんは回想しておられます。その歌詞は


しずかなしずかな里の秋
お背戸に木の実の落ちる夜は
ああ母さんとただ二人
栗の実煮てますいろりばた

明るい明るい星の夜
鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
ああ父さんのあの笑顔
栗の実食べては想いだす


日本を目指して引揚げて来る復員船の中に父さんの笑顔はあったでしょう。

Kobatokurumi9763童謡歌手として、一番可愛いのは小鳩くるみだった

鷲津名都江わしづ なつえ 1948年1月20日- 愛知県出身 「Kobato.mp3」をダウンロード

あのころは、私たち子供はグループで徘徊していた。犬がお供で、遊んでいた。犬も子供も一体になって行動していた気がする。

めんこ(パンパン)やりながら、片方では漫画をみては順番を待っていた。色つき漫画が出始めたのだが、色がズレていたものが平気で売られていた。あれはひどいと昔の子どもでさえそう思った。田川水泡の「蛸の八ちゃん」田川水泡、「あんみつ姫」黒金章介、あとなんだったか、忘れたな。

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Tkawada1川田孝子 そのときみかんの花咲く丘 を本町の吉田さん(本州製紙工場長宅)の玄関でメンコしながら聴いた記憶がある。山がちの中津の町の子には、海の見える丘は憧れ、「いいなァ!」という印象だった。里の秋 はよく学校の合唱で聞いた。これは山がちの町ではしっくりきた。その中で、ちょっと悲しい、戦地の父を思うところなんかは時代背景が出ていた。

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ
(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります

Doyou うちの父は出征しなかったから、そういう悲劇はなかったが、(注) 父親がいない家庭は多かったから、こういう歌詞を書いたのだろう。戦争が家庭を崩壊し、いかに惨めな生活を引き起こすか。この辺りのことを考えたら、憲法の改正して軍備を持つ、なんて簡単にいえない。熟慮が必要だろう。60年も経つと苦しみは忘れてしまう。人間の浅はかさがある。

この当時、草野球が盛んだった。昔の子は集団で遊んでいた。子沢山の時代だから、5,6人はすぐ集まった。集まると、本町から倉前町、桃園町、杉野町、線路渡って石炭置き場へ行き、野球をした。小さい子も仲間に集めてする三角ベースなら、そうは広い場所でなくでも遊べた。中津川は中央線西線の中央で、機関区が置かれていた。機関車のターンテーブルもあり、近くの広場には、蒸気機関車の石炭の貯蔵場所があり、そこが子供の遊び場になっていた。

小さい子、小学3,4年の私たちも、中学生について回った。上級生リーダーの話を聞いていろんな知恵をつけた。犬の散歩、釣り、魚すき、山遊び、先輩のお尻についていれば、安全だし、いろんなことを覚えた。門松取り、ゴイサギ取り、杉の実鉄砲作り、自転車のパンク直し、ドンド小屋の建て方。中3くらいになると、何でもできる。野球しながら、紙に書いた化学記号を覚えている兄貴分もいた。先輩のそうして大人になっていく姿を見ていた。

大人になっていく先輩の過程が見本で、彼らと一緒に遊ぶことでいろんなことが身についていった。ナイフの使い方、喧嘩のしかた、仲間との遊びが重要だった。学校の勉強を一生懸命やるのは別の次元に子供社会の中で身についた。江戸時代から連綿と続いた若者宿とか、その種の教育の場が身近に存在した。

ラジオが盛んに放送されていた。日米水泳大会で古橋広之進、橋爪がアメリカの選手を破って優勝したのに、日本中沸いた。それまでの1500メートル自由形は19分台だったのを古橋の予選の記録は18分19秒フラット世界新記録だった。1500メートル自由形で16分台は普通になっている今では、とても誇れる記録ではないが、当時、梅干や沢庵で麦飯を食っていた日本人がビフテキ食っていたアメリカ人に勝ったと大いに日本人に自信を持たせた。

向えの近藤家具(本町)のテルちゃんは高校生くらいの年だったが、後田川や前川に魚スキに親切で連れて行ってもらった。戦後は家具製造販売が盛んだったから、テルちゃんトコは余裕があった。ホンダの原付自転車も買って商売に使っていたが、近所の子供が乗りたがると、使わせていた。また、テレビを買ったのは、テルちゃんとこが本町一番だった。近所の子供が家の中に黒山の人だかりだったが、文句言わないで許していた。

Always三丁目の夕日」よりもっと前、昭和20年はもっと夢のあった一つの時代だった。当ページ

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2006年1月28日 (土)

故郷の原風景、宮町、本町

NHKで武田鉄矢が司会で土曜特集 さだまさし、小椋佳をゲストに夢の共演、愛する九州、福岡から今夜限りと銘打ってコンサートだった。コンサートは武田鉄矢とさだまさしの軽妙な掛けあいで進めていた。

歌は九州にちなむ歌、故郷=母、歳と共に親に自分が似ていくと語っていた。故里を出た時から、今度は故里に近づいていくようだ。この三人が50代を越して、その語り口が特別のことは言っていないが、重みがつくようだ。

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二部になっていて、九州にちなんだゲスト、氷川きよし、夏川りみが出てきた。二人は、歌唱力があるし、どろどろした感じがないからいい。NHKらしい人選。夏川りみは歌がいい。

「涙ナダそうそう」を歌ったが、全国視聴者向けて分るように歌詞は沖縄方言半分、標準語半分で沖縄の雰囲気を伝えている。その前の「童神」は短い歌だったが方言だけだった。夏川りみは高音の響きのある節回しがいい。見た目は太目の普通の女の子だが、歌唱力と歌の表情がいい。普通の会話はあまり期待しないほうがいい。

故郷は遠きにありて思うもの、故郷=母となるが、本当の意味での母は私にはいない。従って故郷中津川市に帰っても安らぐ場所はなかった。「幾千万の母あれど、わが母に勝れる母なし」というフレーズを聞いたとき、愕然とした。というより、母ってそんなにいいの?と疑問を持った。

八十歳を越す母がいる友人宅に行ったとき、その会話を聞いていると、背伸びもせず、乱暴でもなく、ごく普通に会話している姿を見て、涙が出るというと大げさだが、実に地に付いた会話に羨ましさを感じた。このほっとした空間は、空気は何だろうと、しばらく考えた。

今となると、友の多くは親が居なくなっているが、年を取ってから親を失うのと、子供のうちに親を失うのとで、どう違うか。親を失って和田あき子が哀しそうにしていたが、それは確か悲しいだろう。悲しさは同じだが、子供時期に親、特に母親を失うと成長する土台の性格や常識に大きな影響する。

このことまで、言及する大人が少ない。「親はなくとも子は育つ」というが、ウソだ。ある葬儀の席で会った人だが、親が居なくなって育った70越したおばさん、母親が離婚して出て行ったのだが、悲しそうに語っていた。影響がまだ残っていた。

実母の代わりを新しい母親がカバーできるものではない。同情はしてくれても、心の内部までは埋めてくれることはない。母を亡くした人には、お互いに何か似た雰囲気、匂いがある。それで親しみを感じて近づいている場合があった。

わが故郷中津川市、本町を始めて意識して見たのは、昭和二十一年五月ころだった。母が亡くなって数ヶ月、もう父は子供たちのいる家には帰る回数が減ってしまっていた。生活費を19歳の姉が貰って、子供の食費、生活費はまかなえていたかもしれないが、家がだんだんばらばらになってきていた。

それが私の意識の中で中津が見えてきた頃の我が家だった。兄と一緒に父が子供たちの家に戻らなくなって、本町に女性と同棲している家に行ったときだった。昼間だったが、本町は人通りが少なかった。道は両側に柳が植えられていた。舗装されているわけではない。

昭和20年、19歳の姉が結婚して、兄弟姉妹が二つに分けられた。次兄、次女、弟が新しい母と父の本町の家に行き、私と三男の兄は結婚した姉が宮町の家を継ぎそこに残された。長兄は医大を出て医師になっていたので、父はこの中に含めていなかった。

それが故郷の原風景、中津川市宮町、本町であった。

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2006年1月17日 (火)

高慢と偏見Pride and Prejudice

Pride1 「高慢と偏見」という映画が最近目につく。あれはリメイク版だろうか。大学の英語の授業で「Pride and Prejudice」というテキストを使われていた。大学一年のときだった。

中間・期末テストで苦しめられたが、必死になって勉強した記憶がある。成績はそんなにいいとはいえないのに、クラスメートが勉強しないから相対的にいい成績だった。

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日本では、大学は入るのは難しいが、中に入ると勉強しない人が多い。日本の大学は、どこの学生も勉強をあまりしているとはいえない。図書館に行くと、特別勉強する人はいる。勉強の虫のような人はいる。付記しておく。

Pride2 この「高慢と偏見」を勉強していた頃が、わが青春だった。しかし、クラスには彩りある女性はいないし、仲間と喫茶店に授業の合間に喫茶店に行くくらいだった。あまり華やかなエピソードはない。

青春は、劇の出番を待つ幕間だと言った人がいる。人生そのものも、同様なものかもしれない。

ビデオを見始めると、なんや古いんだな、と感心するほどだ。「エデンの東」「天井桟敷」「ピクニック」の頃の映画だった。

画面は古いが、内容は真理をついたことが描かれている。今から30年も40年も前やった英単語が所々思い出される。

駅の構内で出店で1000円で買ったものだ。ああいうゲリラ的に売っているのは、やすいし、つい気軽に見られていい。

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2006年1月 5日 (木)

冬、来りなば

雪が異常に降って、新潟は雪下ろしが大変だ、とテレビは報道している。11月12日に新幹線で越後湯沢に降りたら、新潟の晩秋 、すぐそこに冬が忍び寄っているという印象だった。山の店は来週閉めて、頑丈に来春までは誰も中に入れないように囲う、と店の人は言っていた。囲って来春まで人が近づかないという。この雪国の習慣を知らないと、その気持ちがいまいち解りにくい。

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上杉謙信にしても、柴田勝家にしても、雪のある間は戦いできなかった。事実、今年の積雪のように数メートルも積もっては、除雪車がない時代、動きが取れなかっただろう。田中角栄も雪国の不便さはよく知っていた。

積雪の多い地方は、雪のない地方に暮らしたいと願う心が、エネルギーになっている。冬も雪が積もらないところに暮らす人には、きっとその雪の降り込められている人の心が分からないだろう。

zenkei (←小室昭さんのHP 洋さんの兄)私が18歳まで過ごしたところは、岐阜の山中ではあっても、街中だったから積雪の恐ろしさは知らない。雪が積もれば喜んでいた。町の中に雪が積もると、雪が不思議な消音の効果があるので、特に夜は別世界が展開された感じになる。

町を見下ろす恵那山に初雪が降ると、中津の町は冬がきたと思う。なにかにつけ、この山が人々の生活を支配している。一月なかばには山全体が真っ白となる。春になると雪が徐々になくなっていく。中津川市は山に囲まれ、ナベ底状になっており、雪は多くは積もらないが寒い。冷え冷えとした空気にさらされる。

寒さの厳しい根ノ上高原の保古沼は厚い氷が張り、スケートが盛んだった。新聞にスキー場の積雪と同時にスケート場の氷の厚さが載っていた。氷の厚さが5cmになると、スケート可、とされた。

冬の保古沼は賑わい、氷の上には500mリンクが作られていた。そこを腰に片手をおいて前傾姿勢で何十人、数百人が回っていた。リンク外には多くのギャラリーが取り巻いて眺めていた。昭和26年、27年ころ、冬の娯楽はスケートだ。春のつつじの咲く頃と同じ位にぎやかだった。

保古沼でスケートリンクの周りに群衆が見ていると、氷が重さに耐えきれずミシミシと割れる音がする。慌てて人々は逃げ出す。慣れていると、人々が逃げてくれると思って自分は逃げないと、遭難する。ということがあると脅されていた。

兄のお供でスケートに行ったことがある。群集の中に混じってリンクをスケートをしている友達がいた。都会から引っ越してきた菅井君だった。小柄な少年だったが、皮靴のロングスケートを履いてスーッと滑って、私の前でニッと笑って過ぎて行った。中学になると、彼はどこかへ行っていなくなった。親の転勤で来て、またどこかへ行ってしまったのだろう。

Geta_skate 当時の大抵の少年は下駄スケートだった。下駄にスケートの刃が据えられ、足袋を履いて足が脱げないように紐で縛った。私のスケートは靴の下に金具で固定する当時のローラースケートと同じ形式だった。

社会人で22歳の兄貴はフィギヤーのスケート靴を買った。畳の上で履いてターンの練習をしていた。おしゃれなことをしたがる人で、スピードスケートで走り回るより、女の子を誘うのつもりだったか、スピードスケートは買わなかった。

私はローラースケートもやったが、スケートにも興味を持った。桃山の弘法大師の裏にあった小さな池、ここに氷が張ってスケートに行った。割烹旅館一岳や長多喜へ行く途中にあったが、今は埋め立てられて跡形もない。小学6年生4人、大村和行、横井正毅、田中亮治と私で滑った記憶がある。後に横井は明治大学のスケート部に入った。500メートルを50秒以下で滑ると、合格するという話だった。

温度が10度を割るとストーブを焚くこのになっていた。親指が飛び出すような足袋を履いていた子供は案外寒がりだった。

S22マキストーブに一日マキは一束だったから、4時間目にはもうなくなってしまった。校舎に沿ってマキが並べてある(写真参照)。二階からカギをつけた紐を垂らしてマキを吊り上げる悪童がいた。

南小学校昭和22年当時、加藤とき先生。本をよく読んでくれた。ジャンバルジャン(ああ無常)など

そういうワルも今ではいい思い出になった。ストーブの上に弁当を置いて、食べるときに温かいように暖めていた。ところが、4時間目には、弁当の中にある沢庵が匂いがプンプンする。 弁当保温気のできる前の様子だ。

お菓子の町中津川市  本町界隈  間家大正蔵  中川 鮮さん 前中津川市長  玉蔵橋(木曽川  全国夫婦岩1位 春うらら 雑談、ムダ話の効用  冬、来りなば 楽しめる方言集  「みかんの花咲く丘」が歌われた頃    歴史の町中津川市 

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2006年1月 3日 (火)

山田風太郎日記 昭和20年2月

FutaroDiary1_2 山田風太郎、22歳、昭和20年2月の日記。批判力はあったものの、彼自身、軍国教育で育っているから、その言うところが皇国日本への批判は存在しない。が、それが米国の物量攻撃にさらされて、疑問を持ち始める。それが、昭和20年のこの頃からだ。

○われらは死なん。死を恐れず。しかも日本の滅ぶるは耐えがたし。白日の下悵然として首を垂れ、夜半独り黙然として思は、ただ祖国の運命なり。自らの死生如何にあらず。死ねばよしでは済まさざるなり。武士道は死ぬことと見つけたり、後は結果としてみれば・・・・されど、渦中にありては、おのれの死生ごとき小事は、みずからの心を安んずる信念の楔クサビとしては足らざるなり。

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○運送人夫は半時間のリヤカーに三十円とる。運ばれたる砂糖一貫目は千円にて売らる。買いたる人はさらにこの砂糖を以って暴利をむさぼらんとす。途方もなき値で肥料を求めたる百姓は途方もなき値で米を売る。ばかばかしき闇値で材料を仕入れた工場はばかばかしき闇値で製品を売る。かくして物価は鰻上りに上がり、貨幣価値は腹下りに下がる。みずからあえぎ、みずからもだえつつ、国民はみずから如何ともする能わず。

このあとに、提灯屋が提灯を大量生産している噂話で、きっと戦勝記念の行列のためという。いや、そうじゃない。あれは懐中電灯が不足しているから、その代わりに提灯を使わせるためだという。面白い話。

Diary2 銭湯のお湯の汚さの解説も面白かった。これは、地面をはいつくばって仕事をする人が多くて、汚い体を洗いにくるからだとか、履物はいちばんひどい物を履いていかないと盗まれる。泥湯でも入らないと体が温まらないから行くのだとか。あまり銭湯の悪口を書いた次の日、風太郎はメリヤスシャツを着て行ったら、そのシャツを盗まれてしまった。

比島戦(レイテ・ルソン)の戦いは昨年昭和19年末から始まり、日本は「日米戦の天王山」と称していたが、いつのまにか論調が変わって、「比島一都邑トユウの得失は二の次なり」「否、比島そのものの問題外なり。日本の欲するは米軍の大出血なりと調子を一変」というように、マスコミ論調も変わった。と、この風太郎の日記で紹介されている。

○今に及んでなお比島戦の目的は敵の出血などそらぞらしきことに、この危局に注げる国民の眼を転じせしめんとす。戦場に敵の出血を求めざるものありや。ガダルカナル以来サイパンに至るまで恐るべき後退を示しつつ、なお国民の真の奮起を喚起し得ざしもの、一に政府・・・指導にもとづく。

すでに・・・道ふさがれし土壇場に到りて、初めて真相を打ち明けたれば、時遅し、国民の憤激は敵に向わずして指導者に向う虞れなしとせざるを知るや否や。

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2006年1月 2日 (月)

戦中派の意識を伝える

00003HUsenn本屋で「戦中派不戦日記」山田風太郎 講談社文庫 を探し、1000円で本は買ったが、電子文庫本はどんなものか、パソコン上で立ち読みしてみた。

(注意:同じ本では、一度スクランブルがかかった「立ち読み」は二度とできない。スクランブルになる前に閉じたら、また読めるかもしれない。調べてないが)

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大晦日のNHK教育は、三国連太郎が山田風太郎の日記を読みながら山田風太郎を演じ、かつルポルタージュ。不思議な作り方のテレビ番組だった。

山田風太郎は、昭和17年に東京医大へ入学したというから、ウチの長兄と学年が同じかもしれない。渋谷から新宿へ通っていた。3月10日の大空襲のあと、学校へ通う途中で、焼け野原、焼け焦げた死体をみたというくだり、いかにも特殊な体験をした世代だ。

この世代は、日本の復興でもいつも先頭に立って進んでいった世代だ。うまく乗っていった人は、この世代が多い。戦前と戦後の両方を見て、バランスをとっていたが、この世代がいなくなると、日本の重石がなくなるような気がする。

00010Dai1 学徒動員に駆り出されて、高校の同級生、文系学生は神宮の球場で雨の中行進し、東条英機の檄で戦場で死んだ。山田風太郎は兵役検査の数日前に肋膜を患い、不合格。病気が治ったのちは学生を続けた。

風太郎は大学に入った年から日記を書き始めた。綿密な日記をつけることで、戦場に行ってお国のために働いている友人に負けない貢献をできるのではないか、そんな意識があったようにも思う。

00016Sentyuu 戦中派の意識は、そろそろあの世にへすべて運ばれてしまう。彼らが感じたこと、それを後世の人々へ翻訳して伝えるのが、辛うじて私の世代か。そんな気持ちで、風太郎の考えを継承してみる気になった。

戦争が終わったとき、まだ5歳幼児では世の中の流れを理解出来ないが、雰囲気は知っている。それを戦中派の言っていることは、同じ空気を吸ったことのある私が、もう一度追体験して、現代の人々に伝えたい。

00018Sukurannburuただ読みができると思っていた電子文庫本、500秒、夢中になっていると、あっという間に過ぎてしまう。 (←立ち読み時間が過ぎると、スクランブル

戦中派の言い分をそのまま伝えても、心に響かない。私が咀嚼して翻訳、解釈して伝えないと、今の人には異物としてしか理解できないだろう。

参考記事 三国連太郎 出生のなぞ    戦中不戦派日記 三国連太郎 中学生から徴兵まで  三国連太郎 結婚~デビューその後  三国連太郎と恩師木下恵介 

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2006年1月 1日 (日)

紅白05、夏川りみの歌はよかった

2005紅白歌合戦 盛り上がりに欠けたように思えた。若い人たちの歌のテーマが個人の感情に基づいた愛、二人だけの世界を歌っているだけ。世界が狭すぎる。それでは、世代を越えた共感を得られないのではと思う。日本人の歌はテーマが小さい。演歌などの流れを汲む情感を伝える手法が多い。2006紅白

2004artist_photo02s 多くの歌手は、自分独自の世界にこだわりすぎで、歌詞が聞き取り難い。相手にメッセージが伝わらなくてもいいのか。その点からいくと、夏川りみの歌い方は歌唱力があるし、日本語を大切にしている。テーマは愛だけど、素直に聞けた。奇をてらっていない点が好感が持てた。

スマップの歌う「世界に一つだけの花」、誰が作詞したのか、世代を超えて共通のテーマになる内容でみんなで歌える歌だと思う。紅白のトリをスマップ5人が勤めたのが、変わったな。

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1109sayuri_ysng あと、吉永小百合の反戦詩の朗読は、気の毒だった。彼女の20年にわたって反戦詩の朗読をしてきた経歴を紹介されたが、取ってつけたようなNHKにむりやり読まされていた。歌っている歌手たちには反戦意識、平和とか愛を歌いながら、それは歌フィクション上の態度に過ぎない。ここは戦争に反対する場所ではないのに、そこで吉永小百合が朗読しても意味があまりない。気の毒だ。紅白は楽しくやればいいじゃないか。

1-359 :おさかなくわえた名無しさん :03/11/16 20:49 ID:3tJsTPjr
吉永小百合さんのイベント出演料金は1回400万円とか。だからテレビに出てこないはずです。ビートたけしさんが、宝くじの抽選会にゲストで吉永さんが出てるのを見て「そんな金を使うならば、宝くじの購入者に還元しろ」と言ってたよ

1:名無しさん (04/08/21 23:21) No.1135

吉永小百合や高倉健のCM出演料は約1億円。
でも1億円出せば出てくれる訳ではなく、CMの内容や、会社のイメージなどで出演を決める(もちろん本人が決める訳ではないが)。あと1億はTV-CMの話で、スチール(ポスターや新聞雑誌の広告、カタログなど)、ラジオなどは別。

 

prof_photo その詩も、「沖縄に戦争が海からやってきた」という詩、こんな中途半端な言い方で平和運動になるか。戦争を憎む気持ちを伝えられない。

海からアメリカ軍がやってきて、沖縄方面軍は全滅、沖縄の人々は軍のため劣悪な状況で死んでいった」その日本軍の沖縄での行状を伝えないと、「あやまちは繰り返しません」のような。どこに主語があるか、わからない内容になる。

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