わが家で唯一秋を感じる場所である。ぶどうの樹が紅葉して、あとは落ち葉となる数日か、最後の一葉となるまでがんばってもらおう、と思っている。人生も秋の季節になってきていると、人の死を痛く感じる。
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利根川のほとり
萩原朔太郎
川の流れあまりにはやくして
わがなげきせきとむる すべもなければ
今日もまた河原に来り
石投げてあぞびくらしつ
おめおめと生きながらへ
きのふけふ ある甲斐もなき命をば
かくばかりいとしと思う切なさよ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ
泣くべかりけれ
萩原朔太郎のリズムのよさについ口ずさむ。87歳の森繁久弥がスラスラと暗唱して見せた。これ、コレ、芸人の見せどころ、ツボを押さえた呼吸というか、つかみのよさ。これが、彼の「徹子の部屋」9回目で最後の出演である。
会話のところどころに、こういう見せ場をもつと、みんなが仰ぎ見てくれる。普段はおちゃらけたコトばかりしている森繁だが、締めるところは締める。すると、司会の黒柳徹子が涙ぐむんだから。
70歳で登場したときは、先輩の徳川夢声と対談かなにか、話をしたとき「君な親が何歳ときの子だね?」と聞かれたそうだ。「恥ずかしいのですが、親が54歳の時の子供です」すると、徳川夢声「オー、それは結構。50過ぎますと、タネも少なくなってくる。ごく選りすぐりタネしか残っていないから、その子はいいのです」「夢
声さんはおいくつのときの?」「お恥ずかしい、親が18、9の子供です。」それで終わるかと思ったら、夢声さんは、こういった「タネは数億ありましたが、バカにしてはいかんよ。その4億の先頭を切ってきた男だからね」徳川夢声を紹介しながら、森繁は楽しそうに語り、話はこうででなくちゃいかん、というように見えた。
徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 1971年8月1日):弁士、漫談家、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレント。本名は福原駿雄(ふくはら としお)。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。日本放送芸能家協会初代理事長。
島根県益田市に生まれ、3歳の頃、母に捨てられ、同居していた祖母に育てられる。学生時代に、近所に住む人妻と恋愛関係になるが、彼女は後に新劇界の伝説の女優「伊沢蘭奢」になった。
40歳で妻を亡くすが、妻が亡くなった夜も酩酊状態で、3人の娘をかかえ途方にくれるが、親友であったユーモア作家東健而の未亡人・静枝と再婚。夢声は早くから老人めいた雰囲気があり、40代から「夢声老」と、50代では「夢声翁」とよばれていた。Wikipedia
「徹子の部屋」第一回のゲストが、森繁久弥である。つまり、それだけ、黒柳徹子と親しい関係にあったのだろう。彼女が二十歳前後、そのころ森繁は40代前半で、血気盛んで、その頃のトップ女優などをはべらして、トークをしていた。そこへ22,3の黒柳徹子が隅っこに坐っていた、という図が想像できる。
ゲストの森繁は62歳で、待ち構える黒柳徹子は何歳?20歳くらい違うから、40代だろう。タキシード着て、礼装して待ているところへ森繁が近寄って「なんでこんな格好しているんだ?」と、ちょうど、今のタモリと同じくらいの歳だから、ズケズケという。ついでにタキシードを触るふりして、おっぱいアタリをセクハラ風にさわる。黒柳もそれを察して身をくねらせて逃げる。堂々と本番中にセクハラ行為をしてしまう。得なキャラクターだから、大目に見てもらえたのかも。
67歳で出演したときは、こんなことを言っていた。「私は才能がないのに、実力で合格したのはNHKアナウンサーだけだ。その後、一生懸命勉強した。人の三倍くらい働けば、バカにもチャンスを神が与えるだろう。」とね。追悼番組『徹子の部屋』で森繁の言った、いちばん有益な言葉だった。
NHKのアナウンサー試験は7次まであって、東京が10名、満州が10名、朝鮮が5名、樺太が2名、台湾が3名で全員で30名採用された。私は受かりそうな台湾を希望して合格した。何人受験したかいわなかったが、相当大勢受験したらしい。
79歳で出演したときは、「あまり欲がなくて、人生何がいやかって、欲張りでゴウツクなのは、というと黒柳に「ずいぶん浮気をしたのでしょ」と問い詰められた。「向うから押し付けられるコトがあるからね。致したくなく、ボクも君のことが好きだよ。しかし、あまり大きな声で言うなよ。ママも聞いているからなんて、となりましたかね。」
黒柳徹子、「NHKの出番前の幕のところで『一回、どう?一回、どう?』とおっしゃいましたよね。私、何が一回、どうなのか、わからなくてね。何にをですか」とうかがったコトがありましたね。
黒柳は「あの一回はキスではないですよね。キスなのかなと思ったりしましたが、そんなコトありませんよね」ここまで問い詰められると、逃げられないものだが。黒柳は「今、おっしゃらなくてもいいのですが」と締めてくれたが、森繁はそういうときも、泰然と弁解もしない。
人生の極意のような語りでは、私は運命に逆らって生きてきた、というわけだ。新宿大久保に住んでいたころ、散歩で新宿まで歩いていくと、いつも手相見が「兄さん、兄さん」と呼びかけられた。或る日、あまりにいうから見てもらった。
「森繁久彌(本名)」の画数や生年月日をみて八卦見は「悪い」という。大凶だというわけだ。大凶はひっくり返ると大吉になる。ボクはね、森繁は、「私」より「ボク」と言っていたね。ボクはね、運命に逆らって生きてきた、という。
「運命は、逆らうものを波に乗せ、沈む者は引きずっていく、これがシューセントラーシェ(意味不明)のテーマですね。逆らってやろう、と思いましたね。逆らう者は引っ張っていく。引きずっていく。逆らわない者は段々沈んでいく。」
人間の健康法としては、忘れることです。忘却は素晴らしい。といって、黒柳の追求をスラスラ楽しそうに、「忘れた」と昨日のことも忘れたととぼけて、都合の悪いことは逃げてします。この処世術は老人の得意芸だ。
80歳で出演すると、黒柳徹子は花束贈呈してくれた。森繁久弥、「ボクは、現金だとあれほど言っておいたのに」とあまり嬉しそうではない。それで黒柳は「お花はなるべくやめて現金がほしいとおっしゃるから、楽屋に花束の代わりに現金がガバっと来たそうですが、きょうはブツで」という。「おそろしいことを言うね。ブツだって?」と森繁の負けだ。「ここへ花束おきますからね」とその回は始まった。
誕生日にからんで、「私は大正2年です。その日は、大変なイベントがありまして、当時、まだ民間に飛行機がなくてそれを●●という人が大阪の錬兵場から秩父の錬兵場へ飛行船を飛ばすという実況中継をラジオでやっていたんです。そのさ中、私の母がウンウンとうなっていた。」徹子さん「森繁さんが生まれようとしていたのですね」「あまりコノ描写はできないが・・」と、結構くわしく話していた。
グーッてやっている最中に「あの音はなんだろう」となって、みんな上の空でね。私は大阪の枚方の生まれですから。産婆さんもラジオを聞きながら、ラジオが気になってしかたがない。「空から聞こえるあの音はなんだろう」って、大阪の飛行場から飛び出した飛行船から音が聞こえると、縁側へ出て空を見ているわけです。私はこの辺(首)まで出て掛かっているのに、ようやく上手に出て着ましたが、出るのがまずくて脱腸になりまして、その後ずいぶん苦しみましたよ。
83歳で出たときは、このときも黒柳徹子と顔ををあわせると、「相変わらず同じ顔しているね」と毒舌を吐く。「同じ顔とおっしゃいますが、始めてお会いしたときは二十歳くらいでしたのよ。私だって、奥様がいらっしゃったときは、一杯浮気をされたのが、奥様がなくなってからは、浮気されなくなったのは本当ですか。どうして、そうなんでしょう?」と突っ込んでいくと、森繁、悲しそうに手で涙でも拭く素振りを見せる。エッ?森繁が泣いた?と見ていると黒柳徹子は「わざとらしいですよ!」とピッシャとやって、森繁のウソ泣きをばらす。
87歳で登場したときは、さすがあまり元気はないが、いうことはしっかりしている。「友だちがたくさん行きましたから、みんな、おいで、おいでといいますからね。それに逆らって生きているようなもの」
黒柳が「人生振り返って、どういう人生だったの、ってありますか?」と聞くと「何かいわなくちゃいけないの?」と切り返す。
なんだかんだ、どう生きるってことは難しいことだし、生きていても意味はないし、そんなことより素晴らしい人生を生きてほしいですね。私が哲学者みたいなことになるから、あまり偉そうなことはいうことはないですが・・・。
いつお呼びがあるか、それはチラっと考えますね。そのときは慌てず、ゆっくり落ち着いて、横臥オウガしていびきをかいて、あちらへ行きたいと思いますね。
この「慌てず、ゆっくり落ち着いて、あちらへ行きたい」というのが、一番だね。虚空をつかんで、死を演じたと評された緒形拳とは違うようだ。
人師は遭い難し 森繁久弥 自殺は感謝の挨拶をしてから 森繁 久彌.、死して何を残す 人生の秋に 森繁久弥はどう生きたか 緒形拳 虚空を見つめて死を演じた
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